瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『「超」怖い話』(1)

 私は怪談に興味を持っているけれども、体験談は苦手である。怖いからではない。以前「ほんとにあった怖い話」とか「新耳袋」その他の実写ドラマを見ていたのも怖がろうとしてではなく「そう来たか」とか「何じゃこりゃ」と突っ込んで笑うために見ていたのである。所詮、体験談は、体験した当人だけのものであり、私の体験ではない。当人が見たと云う以上、見たのだろうけれども、私には同じような経験がないから、信じろと云われても信じようがない。紀藤正樹弁護士が twitter で「ほんとにあった怖い話」に苦言を呈したそうだが、あぁ云うもので文化的な刷込みをされて見えるような按配になってしまう人も少なからずいるのではないか。いや、刷込み自体が悪いと云うのではない。人を脅して霊感商法などに悪用する輩が出て来るのが問題なのである。
 事実、怪談界(?)にもそう云う連中が入り込んでいるらしい。7月10日付「新聞解約の辯(4)」にも懸念を示したけれども、当然そうなるはずである。ここでは実例として、7月中旬に偶然逢着したHN「ほにょ」のブログ「亜州南溟日記」の、2019年01月23日「怪談界に潜む腐れ人種」、2019年02月19日「またぞろ出てきた怪しい奴ら」、2019年04月06日「やっぱりコイツもそうだった・・」と云った辺りを参考までに挙げて置こう。朝鮮人云々には同意しかねるけれども。――仮にこう云った連中が紛れ混んでいたとしても自分は大丈夫だから、と思うかも知れぬが、こんな人たちも別に全員を引っ掛けようとはしていないだろう。少数でも被害者を出すことが問題なのである。しかし、最近は棲み分けが進んでいると云うのか、余り大槻教授みたいな発言が目立たなくなっているような気がする。いや、私とて大槻教授には興味がなくTV出演も色物くらいに思っていたので、大槻教授の主張は図書館にあった文庫本の立ち読みくらいでしか知らぬのだが、やはりまともな世界ではない、おおっぴらにするべきものではなく、もっとこっそりとやるべきことなのだと云う前提を崩してはいけないと思うのだ。だから私は「怪談師」などと云う稼業が成立するようでは宜しくないと思うのである。「怪談師」も実態としては、同じブログの記事、2019年03月26日「怪談師の悲しい宿命」に見られる通り、パクリや改作・創作と云ったことになるのであろう。だから視聴者・読者から情報募集をして、大した話でもないのをそれらしく仕立てたり、しかし他人の体験を書くと云うことは必ずそこに取材者の主観が入るから、それだけでかなり捻じ曲がっていると見るべきで、そして怪談を売物にしようと云う人の取材は、なんとなく辻褄が合っていればそれで通してしまうような程度に止まるので、私などが読むと隔靴掻痒の感を免れない。或いは、ネタを拾うために心霊スポットとされる場所にわざわざ夜中に押し掛けたりして、何か写ったとか音がしたとか騒いでいるのだとしたら(そういう動画を見ていないので実態はどうだか知らないのだけれども)如何なものかと思う。
 また前置きが長くなったが、この『「超」怖い話』と云うシリーズ、存在することは知っていたが「竹書房怪談文庫」と云うレーベルが、どうも私の苦手そうなラインナップで(最近必要があってある作家の著作の何冊かに目を通したが)かつ図書館には余り揃っていないので、手にしたこともなかった。
 その初期の版を一通り見て置こうと云う気分になったのは、Twitter で樋口明雄『「超」怖い話∞(エンドレス)』に「道了堂」と題する話が載っていることを知ったからであった。しかし今、どうしてもこの Tweet が探し当てられない。――だからその Tweet にどこまで書いてあったのか正確に思い出せないが、少し検索してみて、元は勁文社から出ていたのが、勁文社が倒産したため竹書房に移ったので、勁文社版に載っていた話は執筆者ごとに再編集されて竹書房文庫その他から再刊されていることを知った。‥‥まぁ、そんなことも知らなかったのだ。
 それで竹書房文庫版の再編集版3冊と、公立図書館では恐らく元々殆ど購入されておらず、その後の除籍などにより現在では殆ど所蔵されていないケイブンシャブックス1冊と勁文社文庫版4冊を借り集めて、ざっと目を通して見たのだが、体験談ばかりで、私が扱おうと思う怪談の類ではない。私の通っていた公立図書館(決して少ない数ではないのだが)になかったから手にしなかったのだが、書架にあったとしても消閑の具として手にするくらいだったろうと思う。(以下続稿)