・「八王子の絹の道点描」(2)
絵葉書の図柄に触れるつもりであったが地図と刊行時期について長くなってしまったので次回に譲る。
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昨日、私の手許にあるものと、かたくら書店が廃業前年に販売していたものとでは、紙ケースが違っていることを指摘した。
刊年が入っていないので、私の手許にあるものが初版かどうか、俄に分からない。しかし、初版がいつ出たか、見当は付けられる。そこから考えて見れば良いのである。
まづ、国立国会図書館サーチで検索して見ると、東京都立中央図書館に所蔵されている「八王子の絹の道点描/馬場喜信 図 ; 岩崎輝寿 絵 ; 小泉栄一 文」がヒットした。詳細情報には「タイトル:八王子の絹の道点描/著者:馬場喜信 図 ; 岩崎輝寿 絵 ; 小泉栄一 文/出版地:八王子/出版社:かたくら書店/出版年月日等:[1987]/大きさ、容量等:8枚 ; 17cm/価格:300/出版年(W3CDTF):1987/対象利用者:一般/資料の種別:図書」とある。
この元になっている東京都立図書館の蔵書検索のデータは「[ 和図書 ] 八王子の絹の道点描 馬場喜信/図 -- かたくら書店 -- [1987] --」との見出しで、資料詳細に国立国会図書館サーチと同じ情報が並ぶが、注意されるのは「特定事項に属さない注記」すなわち出版地や一般件名など項目として設定されていない事項を記載する欄に「絵はがき」とあることで、最初、国立国会図書館サーチで「八王子の絹の道点描」の存在に気付いたとき「8枚」の「図書」とは何だろうと、ちょっと見当が付かなかった。それはともかく、東京都立図書館の蔵書検索では「資料詳細」の他に「所蔵」すなわち所蔵している資料について、所蔵場所や扱いについて纏めた表が表示されるのだが、そのうちの「配架日」に「1987/12/21」とあるのである。
そうすると、昨日引用したUTR不動産(八王子市東町)のブログ「八王子見て歩記」の2014年03月18日「かたくら書店(後編)」では、「八王子便箋」について説明し、次いで「絵はがき」に及んでいたので、便箋の方が先に作られていたかのような印象を受けるのだが、田原氏の「「八王子便箋」は昭和63年(1988年)から制作している」との証言に間違いがないとすると、実際には「絵はがき」の方が先行して制作されていたことになる。
もちろんこれは、同ブログの2014年03月11日「かたくら書店(前編)」に述べてあったように、UTR不動産の取材の切っ掛けが「八王子便箋」だったために、「八王子便箋」をメインとした説明になってしまったものであろう。
東京都立図書館統合検索で検索して見るに、「八王子の絹の道点描」は都下の公立図書館の幾つかで所蔵していることが分かった。出版年を「1987」としている館があるが、これは国立国会図書館サーチのデータの流用か、それとも受入印に拠るものか。後者の可能性もあるから、出来れば見に行きたいところなのだけれども。
そして、私の手許にある「八王子の絹の道点描」だけれども、ケースの内側に転載されている昭文社「都市地図・八王子市」は、北は京王八王子駅・八王子駅・北野駅・長沼駅、南は多摩美術大学辺りまでを切り取ったもので、小さい黒丸点を連ねた文字通りの点線で「絹の道」のルートを、「京王片倉駅」辺りから「片倉駅」近くを通り東急片倉台団地を抜けて「道了堂跡」を経て、少々「永泉寺」に寄り過ぎている「要衛門屋敷」そして「小泉家屋敷」と、ポイントとなる場所をゴシック体で原図に貼り付けている。他に厳耕地谷戸の「庚申塔」と、「多摩美大」が同様のゴシック体である。これが折返しにある「馬場喜信・図」なのであろう。馬場氏は歴史の道調査報告書 第四集『浜街道』で、八王子市域の絹の道の道筋の考証を担当していたと思われるのだが、その背景にはこのような実績が存在したのである。
この地図、現状と色々違っているのだけれども、昔の八王子市のことを知らない私には何がポイントになるのか俄に分かりかねる。だからもっと良い注目点があるのかも知れないが、とにかく私が注目したのは「西武北野台団地」の北に「高嶺町*1」があることである。
現在、八王子市には高嶺町なる町は存在しない。――八王子事典の会 編著『八王子事典』改訂版を繙くに、479頁9行めに「たかみねまち」ではなく「高嶺町 たかねまち」として10~16行め、成立から消滅までが説明されている。
市の東南部,高幡丘陵上にあった町の名.1955年(昭和30)/由井村の八王子市への合併により,翌56年同村内の旧大字北/野の飛地が高嶺町となった.丘陵の尾根上に長く細い町域/で,東北側に高嶺団地,西南側に西武北野台が完成して,全/域が住宅地となったため,83年高嶺団地地区が新しく絹ケ丘/に編入され,89年には残る全域が北野台1丁目・4丁目とな/り,高嶺町はなくなった.
八王子市がPDFで公開している「住居表示旧新対照表」(735頁)に拠れば「高嶺町」は343~348頁、昭和58年(1983)10月1日に新しく成立した「絹ヶ丘」の一丁目・三丁目となり、348~352頁、平成元年(1989)10月1日にやはり新たに成立した「北野台」の一丁目・三丁目・四丁目となって、このときに消滅、今は西端に位置した八王子市立高嶺小学校などに僅かに名残を止めるのみである。
紙ケース内側の地図に戻ると「高嶺団地」は「絹ヶ丘㈢」になっているから昭和58年10月以降、そしてまだ「北野台」になっていないので平成元年9月以前である。そうすると私の手許にある「八王子の絹の道点描」は、昭和62年(1987)初版と推定して、ほぼ誤らないようだ。
注目したいのは「卍」の記号があって、これに恐らく「道了堂」と添えてあったのを隠すように「道了堂跡」の文字を置いていることである。
道了堂解体は昭和61年(1986)である。https://t.co/RvWbLYrl9P
— 瑣末亭 (@SaMaTsuTeI) 2022年5月24日
・昭和61年(1986)9月刊行の書籍に同年夏頃の廃墟の写真。
・昭和62年(1987)10月刊行の書籍に昭和61年11月の更地になった道了堂跡の写真
・昭和63年(1988)3月刊行の書籍に「昭和61年まであった」。#道了堂 #道了堂跡
私は、上に引いた Tweet に纏めたように、道了堂が解体されたのは昭和61年(1986)秋だと思っている。いや、確定させて良かろう*2。
実は、馬場氏には6月17日付で『八王子事典』や『浜街道』に道了堂が昭和58年(1983)に解体されたとしていることについて、昭和61年(1986)刊行の打越歴史研究会『絹の道』掲載写真その他の資料から見て道了堂の解体は昭和61年(1986)秋頃と思われること、そして馬場氏自身の『八王子事典』などに先行する著書である、昭和60年(1985)刊行の『八王子市片倉台の地誌』追補版にも、道了堂は「自然のなりゆきのままに、往時の姿をとどめている」とあること*3から、道了堂がいつまであったか、実は、当時の手帳などに昭和58年以降、解体までの記録が付けてあるのではないか、と尋ねる手紙を差し上げたのだけれども、その返信として7月31日付で宅地開発当時の片倉台を写した写真アルバムのコピーを恵投され、どうも文字による記録は既にお持ちでないようで、写真も、道了堂及びその境内を写したものではなかった。もちろん、36年も前のことを尋ねているので、お前も36年前の記録をすぐに取り出せるのか、そのまま保管しているのか、と聞かれると、すぐには出て来ない。馬場氏と同世代、或いは同学年かも知れない私の父を見ても、そんな昔の資料は既に粗方処分してしまっているらしいので、覚悟はしていたことだけれども甚だ残念なことである。しかしながら、死ぬまで保管していても、祖母の蔵書のように血の繋がりのある人たちには厄介扱いされ、姻族に過ぎぬ私がせっせと目録化していると云う按配で、確かに「終活」なる語が流行る時世なのである。
それはともかくとして、昭和60年(1985)に道了堂がまだ存することを書いていた馬場氏は、昭和62年(1987)の「八王子の絹の道点描」の図では「道了堂跡」としていた訳で、やはりこの間の解体であったことになる。本当は馬場氏ご本人によりこの点について再確認していただきたかったのであるが、それはもう難しいようだ。諦めきれぬ気持ちもあるのだが、詮無いことである。(以下続稿)
末筆ながら、不躾な質問状に御返答下さったことに、厚く御礼申し上げます。
*1:ルビ「たかみねまち」
*2:確定させて良いと思っているのだけれども、もう1つ、決定的な根拠が欲しいのである。あるはずなのだが、なかなか得られない。
*3:この記述については5月16日付(54)に検討した。