瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(96)

・「八王子の絹の道点描」(3)
 それでは絵葉書の裏面、絵を眺めて行こう。鉛筆のスケッチで、彩色されていない。絵と同じく黒もしくは濃い灰色で楷書体のキャプションを図中に配する。赤の白文方印「輝」のみ色刷。用紙はクリーム色。
 番号は打たれていないので順序は分からない。仮に北から南へ実際に道筋を辿って行くような按配で並べて見よう。まづ「 」にキャプションを示し位置を添えた。次いで印の位置を添えた。
・「鑓水峠  絹街道も今は閑寂」下左横組み、印右下
  両側が高くなっているが右がより高い。
  大塚山の南西側で、北西を望んだ構図であろう。
・「絹の道碑  鑓水峠に、ありし日偲ぶ*1」下左横組み、印右下
  石段を正面から描く。手摺なし。鬱蒼としており夏か。
・「道了堂/鑓水商人達の、夢は何処*2」下中左寄り横組み、印右下
  後述。
・「要右衛門屋敷/ 盛衰無常、石垣に草」上左縦組み、印右下
  石垣の南の角から北西を望む。
  発掘作業中*3なのか、石垣の上は板壁か幕に取り囲まれているらしい。
・「永泉寺  鑓水商人、永久の眠り処*4」下中左寄り横組み、印左下
  山門、本堂、鐘楼を遠望。
・「谷戸の浜道  鑓水村は丘陵のなか」下中左寄り横組み、印左下
  小泉家屋敷を中心に板木谷戸を望む。
・「萱葺屋根の家/百姓の、くらしが滲む*5」下右横組み、印左下
  小泉家屋敷の入口の石柱、納屋、母屋の玄関。
・「呼び水/ 生活用水、今尚昔の侭*6」上左横組み、印左下
  小泉家屋敷か。
 色々と確認したいところがある絵葉書セットだけれども、とにかくここでは本題である「道了堂」の絵柄について確認して置こう。
 手前に、石畳の参道を挟むようにして石垣の上に建つ石灯籠が2基描かれる。参道の右側には石垣の上に載る石仏、瓦屋根の手水舎が並ぶ。
 石灯籠は、現在参道の左側に2基並んで、同じ石垣の上に載っているものであろう。
 石仏は座像らしく延命児育地蔵らしく思われるが、光背があるのと「延命児育地蔵」と刻んだ石柱や亀趺が見当たらない。
 その先の参道左側に柱が建つのは4月9日付(28)に引いた島村一鴻 編『八王子案内』に見える「高さ数十尺の大錫杖」であろう。
 奥に堂宇があり、その右に廊下が延びている。
 すなわち、廃墟になる前の道了堂の様子で、他の7枚が恐らく昭和62年(1987)当時の描写(か、少し遡る時期の様子を写したもの)であるのに対し、この1枚だけが何十年か前の様子を描いたものになっているのである。
 絵を描いた岩崎輝寿は廃寺になる前の道了堂を見ていたかも知れない。しかし、小泉栄一が所蔵していた「武藏國南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之圖」を元にしているとも考えられる。小泉栄一は堂守とも親しくしていたから、その証言を活用している可能性もあるけれども、想像図と見て置くべきものであろうと思う。しかし、廃寺になる以前の道了堂の写真が全く報告されていないのは何故だろう。道了堂解体時期が分からなくなっていたのと同じくらい、理由が分からない。なお、版元の田原勘意は昭和52年(1977)、図の馬場喜信は昭和50年(1975)に八王子市片倉町に移り住んでいるので、ともに廃寺になる前の道了堂は見ていないはずである。
 最後に、紙ケース裏面の小泉栄一「絹の道」から、道了堂に触れた箇所を抜いて置こう。3段落め(13~21行め)の前半、

 だが時は流れて、糸商人達の謳歌した栄華も、/近々半世紀で儚い夢と潰え、軒を並べた豪邸は/荒畑と変じ、商売繁昌祈願で栄えた道了堂も、/今は無残と荒廃した。繁栄の通り過ぎた絹の道/の自然は、‥‥*7

とあって、どうも解体前のイメージで書いているように思われるのだが、どうだろう。(以下続稿)

*1:ルビ「しの」。

*2:ルビ「いず こ 」。

*3:八木下要右衛門屋敷の発掘については5月8日付(47)に引いた『東京都の歴史散歩』が触れている。

*4:ルビ「ねむ・ ど 」。

*5:ルビ「にじ」。

*6:ルビ「まま」。

*7:ルビ「おう か /はかな・つい///」。