瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(62)

・守屋龍男『多摩の低山』と『新 多摩の低山』
 「道了堂(62)」として投稿していた一昨日の記事を「守屋龍男『多摩の低山』(1)」に、昨日の「道了堂(63)」を「守屋龍男『多摩の低山』(2)」に改題しました。目標としてはそれぞれの道了堂の記述まで、昨日一昨日のうちに抜いて置こうと思っておったのですが、とてもではないが作業量が多くてそこまで達しなかったのです。そして、出来ればこの新旧2冊について色々と比較してみたいと思っておったのですが、こうして内容を一通り確認したことで、それは容易な作業ではないことがよく分かりました。必要になった箇所から少しずつ片付けて行くよりなさそうです。取り敢えず、2冊の目次と取材時期を一覧にしたことで、過去の状況が記された参考資料としての活用の途が、多少なりとも開けたと思うのです。
 比較が難しいと云うのは、同じ絹の道を取り上げた『多摩の低山』14~18頁【2】「野猿峠から絹の道」と『新 多摩の低山』17~22頁「②絹の道散策路」でも、まづコースが違っております。『多摩の低山』では、京王北野駅から徒歩もしくは多摩丘陵バス停までバスで行って、野猿峠から絹ヶ丘団地、西武北野台団地(16頁右下の「野猿峠・絹の道付近概略図」では「西武/北の台団地」となっている)を経て大塚山に至っているのですが、『新』では野猿峠の辺りをカットして、『多摩の低山』では最後の最後、18頁9~12行め「■コースタイム」に添えた、13~14行め、

(注)道了堂まで直接行くには、京王線北野駅から西武北野台行きのバスで終点/   まで行き、南の崖ぞいの道を歩くと5分ほどで着く。

としていた短縮ルートの方をメインにしております。すなわち『新』はまづ浜街道と鑓水商人について説明して、コースの説明は19頁12行め~20頁5行め、

 京王線北野駅から西武北野台行の京王バスに乗る。バスは野猿峠などかつてのハイキングコ/ースがあった丘陵地帯を登って行く。このあたり、都市近郊はどこもそうであるが、斜面に瀟/洒な住宅が所狭しと建ち並ぶ住宅地になっている。
 終点の一つ手前の北野台3丁目で下車、側の急な階段を登り左の山腹の道を行くと「絹の道」/と彫られた石碑前に出る。この上のこんもりとした森の中には、かつて鑓水商人や近隣の人々/【19】の信仰をあつめた道了堂*1が建っていた。今は/それもとり壊され、大塚山公園となっている。/絹の道はこの石碑から東南の方向に、当時の/雰囲気を保存しながら約1キロほど続いてい/る。

と始まって、そのまま絹の道資料館、道標、永泉寺、柚木街道を越えて「小泉家屋敷」、そして「柚木街道にある京王バス鑓水停留所からJR・京王橋本駅へ」と進めていて、道了堂跡・大塚山公園に立ち寄ることにはなっておりません。なお20頁の1行の字数が少ないのは上半分に写真があるからで、下に細いゴシック体のキャプション「この石碑から絹の道が始まる」を添えてあり、右端に石碑の上部、正面に「絹の道」右側面に「鑓水商人」の文字が読めます。そして石碑から奥へ斜面が続き、これに沿う写真の左半分は未舗装の平坦な道なのですが、この道は鑓水ではなくて片倉に向かう方だからキャプションと少々そぐわない感じがします。
 『多摩の低山』ではまづ多摩丘陵の宅地開発や野猿峠の名称の説明などがあり、16頁15行め~17頁12行め、

 丘の地形をうまく利用した学校(中山小、中学校)の横を通り、さきほど見えた住宅地へ行く。/大通りで左に曲がり、少し行くと京王バスの折り返し場に出る。その角をさらに左に折れると、/尾根道となる。尾根道を登り水道局の配水場を経由して、やっと上の道に出る。ここが道了堂が/【16】あった大塚山の一角である。うっそうたる森の中に急な石の階段が上へ伸びている。
 わきに「絹の道」と彫ってある石柱が立っている。階段を上るといまは整地されているが、昭/和61年までは道了堂の廃寺が無残な姿をさらしていたところへ出る。
 明治の初め頃までは絹商人が熱心に寄進し、この近在でも信者の多い寺であったのが、時代の/趨勢には勝てず廃墟となってしまったのだ。昭和34年にはこのお堂を守っていた人が殺され、それ/以来人も近づかず、荒れ放題になっていたという。その後八王子市議会で大塚山の保存が決定さ/れ、いまは自然歴史公園として再建されつつある。
 石柱までもどり少しくだってみる。この付近はむかしの姿をそのまま残している。
 昔日の賑わいを思いうかべながら、さらにくだると古い石垣が残っている平坦地がある。ここ/が鑓水三大商人の一人、八木下家の屋敷跡である。石垣の石も相模川の方から運んできたものだ/という。金に物を言わせ、贅沢の限りをつくした豪勢な家だったらしい。現在、八王子市でここ/に記念館を作るため工事中である。(昭和64年春に完成予定)


 残りは橋本義夫が鑓水商人を発見した経緯をごく簡単に紹介し、時間があったら永泉寺見学を勧めるのみで「帰路は鑓水公会堂近くの「絹の道入口」バス停から橋本駅行きのバス」で、■コースタイムによると京王バスではなく「神奈川中央バス」です*2
 地形図と突き合わせれば分かるように書いてあるのですが文章だけだと少々理解が難しい。――「折り返し場」の近くに西武北野台バス停があって、そこから東京都水道局鑓水給水所まで舗装された道路が続いており、直に未舗装の「絹の道」に出るはずです。『新』では素通りしていましたが、ここでは「階段を上」っております。注目すべきは「道了堂」の「無残な姿」が「昭和61年まで」あったと明記していることで、さらに「いまは整地されている」と現状を記していることです。
 但し道了堂の説明は少々妙で、そもそも道了堂の創建が「明治の初め頃」で、堂守殺しは昭和38年(1963)です。236~237頁「参考文献」には、237頁下段1行め「呪われたシルクロード  辺見じゅん 角川書店」4行め「多摩の百年(上・下)  朝日新聞社会部 朝日新聞社」が挙がっているので少々不可解な誤りです。しかし、その辺りはともかく、前回注意したように、18頁8行め「(地図・八王子市2万5000分の1 60年3月から数回歩く)」とあって、地形図の図名は「八王子」が正しいのですが、これもともかくとして、注目すべきは守屋氏が昭和60年(1985)3月から、数回このコースを歩いていると云うことです。
 前回『多摩の低山』の取材年月を労を厭わず列挙しましたが、一番新しい取材は昭和62年(1987)12月の3箇所です。そして、3回、4回訪れたところも一々何年何月と挙げている訳ですが、5回訪れたところは【31】は一々挙げていますが【7】は「5回歩く」と回数を示すのみとなっております。そうすると【2】道了堂・絹の道はそれ以上歩いたことになりそうですが、どうでしょうか。なお、写真は1つだけ、15頁上半分に「雪の中の絹の道」との小さいゴシック体横組みのキャプションが下左に付された、綺麗に雪に覆われた中に、木陰にあって雪を被っておらず黒々とした「絹の道」碑と、雪の積もった石段(手摺はまだない)が写ったものが掲載されております*3
 すなわち、ここから、守屋氏が昭和60年(1985)3月に廃墟となった道了堂を見ており、それが昭和61年(1986)に訪れたときまで存在していたことを確かめていることが分かります。ガイドブック執筆のために歩いている訳ですから、廃墟でも、存在するかしないかは、確認すべき重要なポイントであったはずです。そして昭和62年(遅くとも12月)には整地されていたことも、ここから分かる訳です。(以下続稿)

*1:ルビ「どうりょうどう」。

*2:6月5日追記】ここにメモした『多摩の低山』第六刷は、第二刷と第三刷と同じで、第八刷とは小異。第八刷の改訂箇所は6月5日付「守屋龍男『多摩の低山』(5)」にメモした。

*3:昭和60年3月かも知れませんし、61年・62年かも知れません。