瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(61)

・道了堂解体は昭和61年(1986)
 廃墟になっていた昭和40年代・50年代の道了堂を取り上げた文献は、少なくない。メインで取り上げたのは辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』くらいだけれども、ハイキングや歴史探訪散歩で立ち寄って軽く触れただけの記述ならば毎年数件ずつ存在するようである。それらを一通り見てしまってから、核心を衝こうと思っていた。それは道了堂の解体年を明記した文献を探しあぐねていたからなのだが、先週、漸くこれに逢着した。
 5月16日付(54)の最後に触れたように、昭和61年(1986)9月に刊行された本に、同年の、木の葉が生い茂っている時期の道了堂の写真が掲載されていて、昭和61年に道了堂が存在していたことは分かっていた。いや、実は、この冬にその本を読んで何となく気になっていたところ、その後、何故か道了堂が昭和58年(1983)に解体されたとする説が『八王子事典』や Wikipedia「道了堂跡」項を始めとして流布して所謂《定説》化していることを知ったことが、この記事を書き始める切っ掛けとなったのである。多摩美術大学の怪談や噂話を検討したときに、その近隣で起こった立教大学助教授教え子殺しに附随して道了堂のこともちらほら出て来ていたこともあり『呪われたシルク・ロード』はその頃読んでいたので、ここいらで少々整理して見ようと思ったのである。
 そこで、資料集めをぼちぼち始め、まづ『八王子事典』、それから Wikipedia「道了堂跡」項の改稿状況を検討するところから記事にし始め、さらには廃墟となった道了堂の写真の検討なども始めたのだが、なかなか昭和61年から平成元年(1989)までの間の道了堂について述べた文献に逢着せず、解体時期を絞り込めずにいたのである。
 しかるに、5月18日に立ち寄った某市立中央図書館で私が学部生時代に愛読していた登山ガイドブックを久し振りに手にして、道了堂が昭和61年まであった、との記述を見出した。これまで私が見た中で、道了堂が存在しないことを明記した最も早い時期の文献は3月29日付(23)に取り上げた、平成元年(1989)5月刊「多摩のあゆみ」第五十五号だったのだけれども、この本は昭和63年(1988)3月に刊行されている。――しかし、これで道了堂の解体年を「昭和61年」と直ちに確定させることは出来ない。すなわち、昭和61年の夏に行ったときにはあったのが秋に行ったときにはなくなっていたのかも知れないし、昭和61年春に行ったときにはあったのが昭和62年(1987)秋に行ったときにはなくなっていたのかも知れない。素直に読めば前者に解釈するべきだが、著者は地元の住民でなく、登山ガイド執筆のためにたまにやって来るのであってみれば、解体作業が行われているところに出くわさない限り正確な解体時期を記述することは出来ない訳だから、やはり昭和62年までになくなっていたという確証がないと、決定出来ないのである。いや、元来道了堂の北側にも続いていた絹の道があった辺りを宅地開発した片倉台(八王子市片倉町)の住人の馬場喜信や川奈まり子だって、道了堂の解体時期をまるで把握していないのだから、住所の遠近は関係ないかもしれない。
 それはともかくとして、ここに昭和61年(1986)と云う見当を得た。後はそこを集中して調べるまでである。すると、昭和62年(1987)10月に刊行された本に、道了堂が更地になっているらしく全く写っていない昭和61年11月の写真が掲載されていることが分かった。してみると、道了堂は昭和61年夏から秋に掛けての時期に解体されたことになる。詳細は今後縷々述べることになるが、この1週間足らずの間に大いに捗り、解体年の確定に至ったことを先に報告して置く。(以下続稿)