瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(47)

 さて、昨日まで、5月1日付「全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(2)」に書影を示した新書判の新全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』を取り上げて来たのは、5月2日付「全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(3)」に注意したように、この版は増刷の度に組み直して情報を更新しているらしいことに気付いたからである。
 その『下』の5章め、97~140頁「八王子」は7つの節に分かれるが、その最後、135頁11行め~140頁「7 片倉城跡・絹の道とその周辺」、但し136頁「◉多摩の山城*1」と140頁「◉八王子の織物」の2頁は破線で囲んだコラム。本文は135頁12行め~137頁19行め「片 倉 城 跡*2」と137頁20行め~139頁「絹 の 道*3」の2つに別れている。
 後者は前半137頁22行め~139頁2行めが鑓水・絹の道の紹介で、後半が「周辺」――中山の白山神社、下柚木の永林寺、別所の蓮生寺、大塚の清鏡寺の紹介となっている。
 1版1刷137頁22行め~138頁16行め、

 横浜線国道16号線と交差する先から鑓水峠の道了堂*4旧地を通り/由木*5街道にくだる古道は,幕末の横浜開校以来の絹街道で,戦後/”シルクロード” の名で有名になった。輸出の花形生糸が峠を越え,/小山*6・原町田から神奈川へ運ばれ,峠の南,鑓水村には多くの生糸/商人(鑓水商人)が出て街道筋には豪商が一時期軒を連ねた。八王/子方面から道了堂下までの古道は開発されてむかしの面影はまった/く見られないが,道了堂のあった大塚山(公園として整備中)から/由木街道に下る1.5kmほどに往時の姿がしのばれる。いわゆるシル/クロードである。歴史散歩には大塚山北側の住宅団地からすぐに山/をめざす道や,国道16号線の御殿峠頂上の信号から東に歩いて絹の/道古道の中ほどに出る道もあるが,いまは由木街道の絹の道入口/【137】(京王バス停)から道了堂への道をたどってみ/よう。街道を入ると御殿橋北側に1865(慶応/元)年に立てられた道標がある。もと大栗*7川/南の公会堂前にあり,近年ここに移されたも/のだが「はら町田・神奈川ふじさは」への道/と大山道への分れ道を示している。この先,/”石垣大尽*8” と呼ばれた豪商八木下要右衛門*9屋敷跡には立派な石垣が残っている。近年発/掘調査が行われた屋敷地には絹の道歴史資料/館(仮称,1990年春開館予定)を八王子市が/建設中である。御殿峠からの道と合流する所/から先は,まもなく人家がとだえて,林の中/の道となり,上りつめたもと道了堂入口には/絹の道の碑が立てられている。もとの道を引/き返すと大栗川の手前に永泉寺*10曹洞宗,鑓/水80)が見える。‥‥


 1版7刷*11では、まづ137頁28行めが「‥‥/く見られないが,公園として整備された道了堂のあった大塚山から/‥‥」と改められ、138頁5行めの道標の銘が「はら町田・神奈川ふじさわ」と現代仮名遣いになり、8~11行め「‥‥。ここは/近年発掘調査が行われたのち,絹の道資料館/が建設された。関係する文書や資料が展示公/開されている。‥‥」と開館後の状況に改められている。すなわち、なるべく組み直しが最小限で済むように修正されているので、「索引」に影響が及ぶような改訂は避けてあるもののようである。
 なお138頁16行めまでの字数が少ないのは、その左側に図版「道標側面拓影」があるため。――上部に横書きで「方此」とあり、その下に縦書きで「はら町田/神奈川/ふじさは」と読める。
 137頁右上にある地図「絹の道周辺の史跡」は1:50000地形図の複写で、1版1刷は「御殿峠道了堂絹 の 道絹の道歴史資料館道標永泉寺小泉家屋敷白山神社」を記入している。「絹の道」は「道了堂」から由木街道まで線を引く。一応「道了堂」はあることになっており資料館は仮称で入っていたが、1版7刷では「絹の道資料館」との開館後の名称で入っている*12。(以下続稿)

*1:ルビ「やまじろ」

*2:ルビ「かた くら」。

*3:ルビ「きぬ」

*4:ルビ「どうりようどう」。

*5:ルビ「 ゆ ぎ 」。

*6:ルビ「 お やま」。

*7:ルビ「おおくり」。

*8:ルビ「いしがきだいじん」。

*9:ルビ「 や ぎ したよう  え  もん」。

*10:ルビ「えいせん じ 」。

*11:6月10日追記1版3刷・1版4刷も同じ。

*12:6月10日追記1版3刷・1版4刷も同じ。