瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

先崎昭雄『昭和初期情念史』(5)

・戦後の蹴球部
 昨日の続き。260頁13行め~261ページ5行め、

 戦時中「安田靴店」であつらえた豚革のシューズもとうに失ったままついに私は、サブ/の部員のを借りたり時には素足でちゃんとインステップに当てたりしながら通してきたの/だが、実は日本敗戦後の私は、およそスポーツマンシップとは似ても似つかぬ不健康な精/神状態だったのだ。【260】
 敗戦直前に急性腎炎に罹*1って休学を余儀なくされたことや良かりし昔の生活が急激に崩/壊したことなどで、私は悩みに悩み抜く長い道のりを歩み始めていたのである。
 しかし、サッカーにおける体力と知力と反射神経との見事な調和、肉体の技*2と精神力と/……つまりその直感と意志と決断力との一致が瞬発するこのスポーツの有機的な美は、私/の内省的になってしまっていた側面を解放するのだった。


 終戦時、先崎家は浦和に疎開していたが、その後、上野桜木町51番地に戻って昭和23年(1948)末に退去している。
 焼失前の駕籠町校舎、それから同心町校舎には通ったであろうが、その間の明化国民学校・旧東京第一陸軍造兵廠内青年学校、特に後者に出掛けたことはあったのだろうか。何処からどう通ったのだろうか。しかし1月25日付(1)に引いた「まえがき」にあったように、戦後のことは断片的にしか分からない。著者の進学先も「著者略歴」に「早稲田大学中退」とあるばかりである。学生互助会・理論社編集部 編『その日のために』(1954年5月10日 第一刷・220円・理論社・256頁)は副題に「あらしが育くんだ愛と真実/獄中学生をめぐる手紙」とあって、発行の2年前、昭和27年(1952)5月1日の血のメーデーで逮捕、起訴され小菅の東京拘置所に拘置されていた学生と、家族・友人との手紙をまとめた本であるが、190頁2行め~193頁8行めに「野沢裕から先崎昭雄へ(八月中旬)(野沢は早大文学部学生)」が載っている。但し大学の友人であった以上のことは分からない。
 それはともかく、腎炎と云えば著者より2学年上の北杜夫も小学5年生の3学期を腎炎でまるまる休んでいるが、著者の場合、敗戦、恐らくその前から派出婦人会の仕事も回らなくなっていたであろうし、更には上野桜木町からの退去(何処に移転して、どのように生計を立てたのかは書かれていない)と云った時期に、身体を壊して長期休学を余儀なくされたことは、非常に大きな影響を与えたことであろう。
 それだけに、家族や住所についての具体的な記述がなくなった中でサッカー部での活躍が特記されていることが、意味を持って来るように思われるのだが、それがどのような意味だったのか、その記述は本書中には殆どない。三島由紀夫事件当時のことや、本書執筆に当っての感慨から窺うばかりである。
 その活躍について述べた箇所を見て置こう。261頁9~16行め、

 だが、一~二年生のときを通じてあの山崎さんの熱心で厳しいコーチから授かった旧制/中学レベルでの私なりの開眼*3は、三年間のブランクを経てなお身についたまま生き続けて/いた、と思うのだ。
 それは昭和二二(一九四七)年に行われた東京選手権大会の対東京高師(現・筑波大)/付属中決勝戦再試合での勝利点を、私が浮き気味のボールに向かって蹴り込んでボレーの/強蹴でたたき込んだことによって証明された、と自分では思っている。事実、この大会主/催『第一新聞』の記事には、その決定的な瞬間を含めた全試合を通じての私の働きが書か/れていて、超中学級などと褒めてくれていた。【261】


 山崎さんは259頁16行め「二年生のとき」の開眼について述べた箇所に「四年生の山崎さん」と見えていた。この試合のことは続く262頁1~6行めにも述べてあるが割愛する。
・『東京大学のサッカー ライトブルーの青春譜東京大学ア式蹴球部 90 年記念誌(発行日 2008年12月19日・制作著作 一般社団法人 東大LB会/東京大学運動会 ア式蹴球部・発行所 東京大学運動会内 一般社団法人 東大LB会)
 この本は「一般社団法人 東大LB会」の「ア式蹴球部 90年史」にて閲覧出来るのだが、31~56頁「第2部 私のサッカー人生」に、東大に進学した部員によるこの試合の回想が載る。48~56頁、長山樹*4の寄稿「蹴球からサッカーへ ボールと共に70年」に、以下の記述がある。50頁右15行め~51頁左3行め、

 1947(昭和22) 年9月24日、第2回東京蹴球/選手権大会中等の部決勝戦が東大御殿下グランド/で行われ、3度目の対決は0対0の引き分け、雌/雄決戦は4日後の再試合に持ち越されました。第/1試合の模様について東京蹴球協会理事長の松丸/貞一さん(五中・慶応・ex 千代田生命・故人)/が第一新聞紙上で論評してくださいました。 “稀/に見る激闘で両チームとも真剣かつ純真、その気/迫に満ちた姿とフェアーな試合態度は応援の両校/生徒や卒業生を感動させた”。
 9月28日、さらに増した大応援団は御殿下の/土手を埋め尽くしました。五中チームに故障から/復活した名インナー先崎昭雄選手が加わり、3対/【50】2で辛勝し西宮の全国大会に臨みました。
 12月22日、全国中等学校優勝サッカー大会が/始まりました。‥‥


 特に著者の名前を挙げているのは、著者がこの復帰戦で決勝点を挙げたからであった。なお長山氏は昭和18年(1943)五中入学で先崎氏の1年後輩、そして同じ01回生として卒業している。
 なお、長山氏の寄稿の前、38~47頁に載る岡野俊一郎(1931.8.28~2017.2.2)のインタビュー「自分で自分を強くする」も昭和19年(1944)五中入学で、同じ試合に出ていたのだが、著者には触れていない。本書には、この試合について述べた後、262頁6~9行めに、

‥‥悽愴な試合だったらしい。(なおこ/のときのチームメイトの一人は一学年下の岡野俊一郎、上野のしにせ岡埜栄泉の御曹子で、*5/現在は日本サッカー協会副会長、また平成二〈一九九〇〉年から国際オリンピック委員会/〈IOC〉委員)

 

と岡野氏に触れている。入学時は2学年下だったがこのときは1学年下、前記『誕生五十年』に岡野氏は「天才が5人いたら」を寄稿しているが、「(02回)岡野俊一郎」とあって「(01回)先崎昭雄」の1年後、昭和25年(1950)3月に東京都立小石川高等学校を卒業している。「五中・小石川デジタルアーカイブ」に拠ると「1月28日 東京都立小石川高等学校と校名改称」、そして「東京大学に82名が進学し日本一となる」――岡野氏はその1人だった訳である。
 『東京大学のサッカー ライトブルーの青春譜』の岡野氏のインタビューの最後には「岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)年譜」があるが、47頁9行め「1949(昭和24)年 東京都立小石川高等学校を卒業、東京大学理科 II 類に入学」とあるのは1年間違っているのではないか。
 さて、長山氏そして岡野氏が触れている全国大会であるが、先崎氏は出場しなかった。この章の最後を抜いて置こう。262頁10~13行め、

 それからまもなく私は再び体調を崩してサッカーから遠ざかってしまう。それでも翌二/三(一九四八)年の東京大会決勝戦にはあえて部長の三和*6先生に懇願、むりに出場して勝/ったのだが、それに続く西宮の全国大会には同行できなかった。そして私はサッカーと永/別した。


 部長のことは長山氏のインタビュー、50頁右上に挿入されている写真のキャプションに「東京府立五中のサッカー部。前列右端が長山樹。その左が岡野俊一郎、/中列左端が折原一雄(いずれも東大LBメンバー)。中列右から2人目/が本田哲郎先生、3人目三和一雄先生」とある。著者も写っているであろうか。(以下続稿)

*1:ルビ「かか」。

*2:ルビ「わざ」。

*3:ルビ「げん」。

*4:ルビ「たつき」。

*5:ルビ「せいそう/の ・おんぞうし 」。

*6:ルビ「み わ 」また「あえて」に傍点「ヽ」を打つ。