瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(351)

木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』(6)生年月日⑯
 続いて136頁5行め、「 教師に対しても反抗的だった。小学五年生の時、新校舎が落成した。‥‥」以下、労少年が起こした2つの事件を紹介する。
 小学5年生であれば父・竹中英太郎に引き取られた後、鮫浜小学校でのことになりそうだが、木村氏はその辺りは暈かして、136頁11行め~137頁2行め、

 悪ガキながら、成績は抜群で、級長を務め、全国綴方コンクール二位、交通標語一位入賞、百/人一首「小学生日本一」の栄誉に輝いている。
 まさに〝栴檀は双葉より芳し〟の例えどおり。
 父・英太郎は売れっ子の挿絵画家だったが、昭和十二年、絵筆を捨て満州へ渡り、雑誌の編集/に従事。東京品川に鉄工所を開き、つね子と再婚した。【136】
 そのため労は生母と別れ、父親に引き取られた。しかし、多感な少年は義母に馴染めず、猫と/遊ぶだけが楽しみだった。

と、父に引き取られたことは後で述べている。
 昭和15年(1940)頃に鮫浜小学校の「新校舎が落成した」のかどうか、ネット上では資料が得られなかった。コンクール類も同じく。また、竹中英太郎の渡満や離婚・再婚については、別に検討することにしよう。
 猫好きのことは既に55頁5~13行め、

 竹中さんの猫好きの根は深い。幼少のみぎり、竹中さんは家庭の事情で両親と別れ、親戚の家/に預けられた。それはまことに寂しく、屈辱的な日々だった。
 ある時、可愛がっていた猫を家人に二階から投げ捨てられ、労少年は深く傷ついた。その事が/大人になってからもトラウマ(精神的外傷)として残っていたのではないかと思う。
 野良猫はまさに子供の頃の竹中さん自身にほかならない……。
 一九七四年に仕事場を世田谷から箱根・宮城野へ移したのも猫がからんでいる。可愛がってい/た猫が近くを走る井の頭線の電車に轢かれて死んでしまった。それを嘆いて、「もうこんな所に/住んでいられない」とさっさと猫たちと箱根へ移転した。
 私は箱根へも原稿を取りに行ったことがある。‥‥

と見えていた。
 続きを見て置こう。137頁3~4行め、

 太平洋戦争勃発後、一家は甲府疎開するが、労は東京へ残り、親戚のクリーニング店から旧/制高輪中学へ通学した。


 5~8行めは、8行めの前半「 やがて甲府中学へ転入学。‥‥」の件以外は読書歴が述べてあるが割愛する。
 9行め~138頁2行め、引用は原文では1字下げで前後1行空け。

 昭和十九年早春、学徒動員で神奈川県大船の海軍燃料廠へ。
 そして昭和二〇年、ようやく戦争が終る――。

 敗戦の八月、おいら大船の海軍病院からタンカにくくりつけられて、山梨県甲府市の父親の/もとに帰った。病名大腸カタル、真相は教師の制裁による全身打撲、いまでも旧制中学の同窓/生たちの語り草になっている、おいら三日にいっぺん殴られていた。

 甲府中学へ戻ると、全学ストライキを指導して、戦犯教師を追放したが、自分も退学処分にな/った。【137】
 昭和二十一年、東京外事専門学校(現東京外語大)露語科に入学、九段にあった東京学生会館/をねぐらとして、波乱に富んだ青春時代が始まる。

 これ以後は年齢の確認には関わらなくなるから割愛しよう。詳しくは改めて確認することとするが、ここでは1点だけ、――流石に「退学処分」になったらすんなり進学出来ないだろう。この辺りは話を盛っているのではないか。ここで、本書に色々述べてある竹中氏に関する評のうち、46頁1~9行め(本当はその前後も抜くべきなのだが)の矢崎泰久の評、

 「竹中さんは文章がうまかった。書くのが早くて、達者だった。特にまとめかたが抜群にうま/かったね。竹中さんはぼくの文章の先生ですよ」と矢崎さんは言う。

 「ただ、書くものは必ずしも正確とは言えなかった。自分の思い描くものと違う事実が出た/場合、それには触れないというか、そんなことは大したことじゃないと切り捨てることもあっ/た。そのほうが訴えるものが鮮明になるという考えだった」

 竹中さんは〝イメージ〟から出発する。〝予断〟〝作為〟を恐れなかった。その文章は、事実だ/けを簡潔に伝える新聞記者の文章とはまったく異質だった。〝客観中立、不偏不党〟クソくらえ/で、読者の情緒・情動に強く訴えた。読者の心を突き動かす、扇動的な文章を書いた。
 だから書かれた側は「少し違う」と思ったとしても、読者には〝うけた〟のである。

を思い起こした。1月9日付(335)に引いた、ちくま文庫決定版ルポライター事始に収録されている赤マント流言の体験談も、酒屋のオッサンの件は小沢信男「わたしの赤マント」から着想して〝盛った〟のではないか、と思われるのである。
 そう云えば、稲川淳二も『稲川怪談』で似たようなことを語っていた。それは別に記事にするつもりである。とにかく〝イメージ〟から出発した方が情緒・情動に強く訴えることになるのであろう。私には無理である。(以下続稿)