瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(350)

木村聖哉竹中労・無頼の哀しみ』(5)生年月日⑮
 大体無計画に(全く無計画と云う訳ではないが)書いているので2月10日付(346)に触れた「青春遊泳ノート」を取り上げるのが遅くなってしまった。
 この「漫画アクション」の連載、『青春遊泳ノート』に収録され、さらに『無頼と荊冠』にも収録された訳だが、ジャーナリスト双書⑯『ルポ・ライター事始』209~226頁、まとめ 大村茂「竹中労の仕事」にも記述があった。212頁上段18行め~下段2行め(改行位置は「|」で示し、傍点「ヽ」箇所を仮に太字で示した)、

⑲『青春遊泳ノート』(深沢七郎唐十郎らとの共著|/73年・双葉社
 ――戦後、日共体験をタテ軸にした青春の放浪を描|【212上】いている。『無頼と荊冠』にも収録して、原稿の二重売りと批判された。


 この『青春遊泳ノート』の「無頼と荊冠わが青春残俠伝」を書名とした『無頼と荊冠』だが、この本も昭和3年(1928)3月30日生説になっているらしい。と云うのは、Wikipedia竹中労」項は、

竹中 労(たけなか ろう、本名:つとむ、1928年3月30日[1] 戸籍上では1930年5月30日[2][3] - 1991年5月19日)は、日本のルポライターアナーキスト、評論家。東京都出身。甲府中学(現:山梨県立甲府第一高等学校)中退。‥‥

と書き出されているが [1] をクリックすると「脚注」の「1. ^ 『無頼と荊冠』11ページ」に飛ぶ。但しこれは「わが青春残俠伝」ではないらしい。と云うのも、竹中氏の年齢について「こだわる」姿勢を見せていた寺島珠雄が、1月6日付(332)に見たように「竹中の『無頼と荊冠』(73年三笠書房)のうち‥‥」として、『無頼と荊冠』所収の「わが青春残俠伝」の記述を元に、昭和3年(1928)生説を補強しているからである。しかしながら11頁に明記されているのであれば、そんなことはしなくて良かったはずなのである。
 『無頼と荊冠』は来月にでも閲覧するつもりだけれども、今は木村氏が「第八章 世界革命浪人」紹介している範囲で内容を見て置こう。133頁16行め~134頁2行め、

漫画アクション』に連載した「青春遊泳ノート」(一九七二年)によると、竹中さんは家庭の/事情で三つか四つの頃から親戚の家に預けられた。【133】
 どんな事情があったのか知らないが、母親の愛情をもっとも必要とする時期に甘えられず、両/親(のち離婚)のスキンシップに恵まれず、寂しい幼少期を過ごさざるを得なかった。‥‥


 133頁15行めには「 竹中労は昭和五年、東京牛込区肴町で生まれた。父・英太郎、母・八重子の長男。」とある。この1行を「青春遊泳ノート」の前に差し挟むことによって、その内容を昭和5年生説に従って読み取らせる仕組みに、本書ではなっている。
 134~135頁に「小学二年生の時、崔君という朝鮮人の友達」との関わりの中で「七歳のとき、おいらはすでに革命家を志したのだ」と云う出来事を語る。――私が5月30日生説を疑うのは、この友人を「イジメた上級生の一人を後ろから襲い、石で頭をカチ割り、大ケガをさせ」る程の付き合いに5月末までの満7歳であった2ヶ月間で、なっているだろうかと云う疑問を覚えるからである。いや、これは細かすぎるかも知れぬ。視点を換えよう。――5月30日生であれば小学二年生は初めの2ヶ月を除く殆どが満8歳(数えで九~十歳)なので「七歳」と云う年齢と共に想起されないのではないか、と思うのである。この点、3月30日生説であれば小学二年生は最後の数日を除いて満7歳(数えで八~九歳)、小学二年生=七歳と云う式が成立する。
 ちなみにこの事件により、竹中氏は「伯父」の家から「こんな厄介者のキチガイは家の置いておけぬ」と追い出されている。「竹中労 年譜」に云う「家庭の事情で転居転校4度」の最初であったろうか。この「伯父」の家ではそもそも「厄介者」扱いされ「イトコたち」とは酷い差別的な待遇を受けていた。そこに暴力事件が重なって正に厄介払いされた訳だが、それで実母と暮らすこととなったようである。(以下続稿)