瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

竹中労の前半生(06)

・ 備仲臣道『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(2)
 昨日引用した、鈴木義昭『夢を吐く絵師 竹中英太郎』の、鈴木氏と竹中英太郎の次女で湯村の杜・竹中英太郎記念館の竹中(金子)紫館長の対談で、鈴木氏には竹中労の描いた「フィクション」の竹中英太郎像を鵜呑みにしている上に、関連事項に対する理解が余りにも稚拙だと酷評され、そして館長には、父の名誉を著しく傷付ける記述のあること、それから勝手に「生誕百年記念出版」を謳ったことについて抗議したと不快感を露わにされていた本書ですが、全く使い途がない――参考にならないとは、私には思えませんでした。
 しかし、確かに不思議な本です。「幻の画家・竹中英太郎の生涯」と云う副題なのに、その「画」が本書には全く載っていないのです。写真はカバー表紙と裏表紙の上部、1頁(頁付なし)扉の左上、そして209頁(頁付なし)に4点、合計7点しか掲載されておりません。
 一昨日、3月6日付(04)に書影を貼付して置きましたが、カバー表紙の上部の写真は、何処か戦災後に道幅を広くした都市のようで、このような大通りに面したところでも2~3階建が並んでいたような時期、一見して戦後の甲府の市街地だと察せられます。カバー裏表紙もやはり3階建の屋上辺りから俯瞰した、同様の大通りの写真で、扉は城跡や駅前ロータリーを捉えた中心市街の航空写真です。これについては2頁(頁付なし)扉裏の下部に「装幀――臼井新太郎/組版――字打屋(西澤章司)」1行弱空けてやや小さく、

カバー写真――甲府、平和通り(昭和三八年)
       [表1]駅前から
       [表4]市役所前から
本扉写真―――甲府駅周辺(昭和二八、九年頃)

とあります。209頁の写真は3点が「‥‥、甲/府・八百竹画廊での竹/中英太郎回顧展の様子/(1989年4月、撮影・筆/者)。‥‥」でもう1点は「‥‥東京・弥生美術/館での竹中英太郎記念懐古/展「残酷美術館」チラシ/(開催期間は1989年4月/~6月)。」――すなわち、展覧会の様子を写した写真と、説明文の文字が読めないくらい縮小されたチラシに掲載されているものしか、本書には竹中英太郎の絵画作品が載っていないのです。
 それもこれも、遺族(著作権継承者)の協力が得られなかったためだと分かります。これに対して、3月7日付(05)に書影を貼付した鈴木義昭『夢を吐く絵師 竹中英太郎』はカバー表紙、裏表紙、表紙折返し、扉に竹中英太郎の絵を使用、そしてカラー口絵(頁付なし)が8頁あり、さらに77~84・131~138・191・194~196頁(頁付なし)は白黒図版で作品を掲載しております。また、1頁(頁付なし)に「竹中英太郎(1960年、53歳)」の白黒写真がある他、192~193・197頁(頁付なし)に昭和12年から昭和52年までの家族と写した写真が白黒で掲載されています。本書には家族写真はもちろんのこと、竹中英太郎本人の写真もありません。『夢を吐く絵師 竹中英太郎』に戻って、198頁(頁付なし)には「マレーネ・ディートリッヒ「ディナーショー」のポスター(昭和49年)」を大きく掲載してありますが、下右には「湯村の杜、竹中英太郎記念館」の玄関、下左に館内に立つ「金子紫館長」の写真まであって、遺族の全面的な協力を得ていることが分かります。
 ただ、本書にも、80頁7行め「 そのころを紫はこう語っている。」として、前後1行分ずつ空けて2字下げで8~13行めに金子紫の発言が引用されています。この金子氏幼少期のエピソード(80頁4~13行め)は連載時には存在しませんでした。本書では(連載時には引用末に添えたりしていた)出典を各章末の「」に纏めているのですが、ここには何ともしていません。そうすると備仲氏が直接金子氏から聞いたことになりそうです。単行本刊行までは、其処まで関係が悪化していなかったのでしょう。――とも思ったのですが、連載前に聞いた話で、紙面に限りがある連載では割愛していたのを単行本で復活させたのかも知れません。(以下続稿)