瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(1)

・『御即位及大嘗祭著作権侵害事件
 私は、ある人物の著述を活用する際に、生歿年月日や経歴・居住地を確認するようにしている。いつ、何処にいて、当時どういう立場だったか、それには家族も調べる必要が生じる。――『三田村鳶魚日記』の赤マント流言の記事について検討して、三田村氏が何処からこの流言を聞き知ったのか、登場する人物から調べ上げてほぼ見当を付けたのだけれども、何となく中絶してしまって再開したいと思いながらそのままになっている。いや、日記を活用しようと思ったら自明のこととして記述されていない事柄の確認が欠かせないので、面倒この上ないのだけれども。
 それはともかく、中途の経歴が分からないことも多いけれども、せめて生歿年くらいははっきりしていないと落ち着かない。当人が書かなかったり曖昧にしていたりで生年が分からない人も少なくないが、歿年が分からないと少々寂しい気分にさせられる。しかしながら、余り有名でない著者の場合、遺稿集でなければ当人の生前に刊行されているので、当人の述べている範囲は分かるが、それ以後のことは皆目分からない。能美金之助『江戸ッ子百話』はさらに書き継がれているはずなのだけれども地元の図書館にも所蔵がない。美しい回想『思い出の鑓水』を遺した小泉二三にはこの1冊しか材料がない。
 私は修士課程の院生時代に、国文学者笹野堅の伝記を調べていて、大正から昭和戦前の「集古」を一通り眺め、法政大学能楽研究所に遺族から寄贈された来簡集に目を通したことがあって、年譜と著述目録を作成しかけていたのだが、それで『三田村鳶魚日記』や江戸生活研究「彗星」にもそれなりに馴染みがあったのである。だから、赤堀又次郎の名もたまに目にはしていた。しかし何時頃、どのような形で三田村氏と関わっていたかはすっかり忘れていたのだが、今、改めて眺めて見ると、それほど親しい関係ではなかったようで、三田村氏も巻き込んだ〝事件〟まで発生していたのである。
 三田村鳶魚全集』第二十五巻229頁、三田村鳶魚日記』大正四年十月二十七日(水)条に「◯今朝赤堀又次郎氏来話」十月二十八日(木)条にも「赤堀又次郎氏来話、同氏ハ午前十時十五分ニ帰ヘラル」と2日続けて三田村氏の家を訪ねて話をしているが、その要件は十一月一日(月)条「林氏ヲ訪ヒ、和田千吉氏ガ赤堀氏ノ著述ヲ剽窃シタルコトニツキ懇談。」から判明する。同日条には続いて「◯共古翁ヲ訪フ。◯集古会誌寅ノ分三冊ヲ林氏ヨリ恵贈。」とあって最後に再度このことにつき「◯夜分林氏来リ、和田氏ノ謝状ヲ持参アリ、和解ノ話ヲナスベキニ決ス。」と云う訳で、十一月二日(火)条「林氏同行、赤堀氏ヘ対談不調、先方金ニデモスル積リカ」とある*1
 そこで国立国会図書館デジタルコレクションにてこの頃を検索して見るに*2「御卽位禮畫報」第七卷(大正四年 十 月 二 日印刷・大正四年 十 月 五 日發行・御卽位記念協會・一三二頁)一〇五~一三二頁に、赤堀又次郞「「御即位及大甞祭」と「太陽」に載せたる「即位禮」と「大甞祭」」*3が掲載されている。一〇五頁に経緯を説明しているが冒頭、4~5行めを抜いて置こう。

「御卽位及大甞祭」と云ふ一書を、余は昨年公にせり。此頃、東京博文館發行の「太陽」増刊、御大禮盛儀の中に/載せたる和田千吉氏の「卽位禮と大甞祭」とある長篇の文章を見るに、拙著と甚相似たるを知る。‥‥*4


 そして続く一〇六~一三二頁には自著を上段、「太陽」を下段に対置させている。

 「御卽位禮畫報」大正天皇の即位礼に因んで、大正3年(1914)1月から大正5年(1916)7月まで12冊刊行された雑誌で、赤堀氏は専門家として第六卷を除く11冊に論考を寄稿している。
 奥付の上にある『御卽位大甞祭』の広告には、赤堀氏は次のように紹介されている。

著者赤堀又次郎先生は帝國大學古典科の出身にして律令有職の古/實に造詣深く就中御卽位及大甞祭に關しては多年至大の精力を傾/倒して研鑽を積まれたり。本書は今囘井上文學博士芳賀文學博士/の慫慂に依つて登極令を詳解し出版せられしものにして一々儀式/によつて古實を闡明し、附するに鮮明なる寫眞版、三色版、石版等/を以てし、‥‥


 和田千吉(1871.十二.十五~1945.5.21)については、浅田芳朗『人見塚の家―和田千吉小伝―(昭和四十五年十二月 十 日印刷・昭和四十五年十二月十五日発行・頒価 壱千五百円・和田千吉先生記念会(姫路)・110頁)を参照した。扉、口絵12頁、和田敏政「父千吉の思い出」6頁、次の中扉まで頁付がない。1頁(頁付なし)目次、3~83頁「人見塚の話/―ある郵便局員の学史的業績―」及び85~110頁「和田千吉年譜」。――和田氏はこの当時、赤堀氏が上記文章(一〇五頁17行め)に書いているように「東京帝室博物館の技手*5」であった(1906.4.13~1921.12.10)。郵便局員であったのが業績を認められて中央に進出した在野の、学歴のない考古学者の1人で、梅原末治や森本六爾等の先駆のような人物である。三田村氏との関係だが先に引いた日記に見えた「集古会誌寅ノ分三冊」、すなわち「集古會志甲寅一(~三)」の標題で、連続した日付で刊行された3冊の*6、奥付と同じ頁にある「集古會規則」に「會長(當分之を缺く)」に続いて「幹事」として「大野 雲外  林  若吉  黒川 眞道/竹内 久一  山中  笑  大橋 微笑/福田 菱洲  三村清三郎  和田 千吉」とあるから集古会を通してのものであるらしいのだが、しかし赤堀氏が三田村氏に話を持ち込んでいること、そして三田村氏が林若樹(若吉)と解決のために動いていることについては、もう少し関係を精査する必要がありそうだ。
 この「太陽」のことは『人見塚の家』にも見えている。「和田千吉年譜」105頁12行め~106頁6行め「大正四年(一九一五)」条、105頁13~14行め、

 六月、『太陽』第二十一巻第八号御大礼盛儀特別号に、カラフルな多数の挿図入りで、長編論文「即位礼と大嘗祭」/(二~五四頁)を掲ぐ。

とあり、目次には「序 父千吉の思い出」とある、次男・和田敏政(1893.4.9生)の回想「父千吉の思い出」にも見えている。当初、浅田芳朗(1909生)はこの「父千吉の思い出」を再録しないつもりだったのか、74頁4~18行め、引用箇所は1字下げで前後行空けなし、

 敏政さんは、『郷土文化』の第十集に、「父千吉の思い出」を掲げ、

「明治末期から大正初期にかけては父が最も活躍した時代だと思います。明治末神奈川県橘樹郡日吉村(現川崎市)/|にお穴様*7と称する流行神があり、一時は川崎大師や羽田穴守稲荷を凌ぎ鶴見川には参詣者の便船が通う繁昌振り/で|東京でも有名になりました。当時東京日日新聞*8から新聞紙四頁のお穴様特輯号*9が発行され|父は新聞社の要請/で二頁位に亘り所謂お穴様と題し御神体が古墳であることを詳細に解明し世人に名を知られるよう*10|になりま/した。是が因か否かよく判りませんが、父はマスコミに引き廻されて一般雑誌の寄稿に寧日なく、終に|婦人雑誌の/記者が毎月締切日*11に原稿の居催促をする始末になり、人のよい父はマスコミの要請を断れなかったも|のと思われま/す。又ある時は月刊誌太陽の御即位特輯号に御即位式や大嘗会の次第を故事に基き一般人に判り易く|解説す/るため*12連日深更まで古書を漁り取まとめ*13に苦心しているのを見掛けましたが、雑誌が発行されて見ると数十頁*14に|及/ぶ広範なものであったので私は少々驚きました。又出版社から日本風俗史の出版を頼まれたようで余暇を見/ては|取まとめに務めて居りましたが、上代の部だけ*15原稿が出来上って居たようですが雑務に追われて脱稿に至ら/ず中絶しま|した。当時母は父が繁忙で充分睡眠がとれないのを非常に気づかって*16居りましたが、此の様な状態は五/六年*17も続|いたように思います。」

と回顧されている。これからわかることは、和田さんが風俗史関係に関心を寄せすぎ、自らマスコミに担かれて繁忙/に陥られたようで、埴輪の研究に専心しつづけられなかったのもこういう事情にもとづいているのだろう。‥‥

と長々と引用していた。
 なお、この引用箇所は巻頭「序 父千吉の思い出」では4頁め7~18行め、改行位置を「|」で示し異同は註記、またこの「序」に存しない読点や括弧は灰色太字にして示した。
「郷土文化」は浅田氏が長年にわたり刊行していた郷土誌だが姫路市立図書館にも揃いで所蔵されておらず第十集の刊年月日は本書執筆を志して調査を始めて以降と推察されるのみ、また、目次等の情報が閲覧出来ないので内容も考古学が中心であったろうと思われるばかりである。
 それはともかくとして、和田氏は「帝室博物館技手」と云う肩書を持つ書き手としてマスコミから重宝され、依頼されるままに専門外のこと*18にまで手を伸ばした結果が、赤堀氏に抗議されることになったもののようである。尤も「和田千吉年譜」の「大正四年(一九一五)」条の最後、106頁5~6行めに、

 この年、和田さんを主任に「御大礼御関係品特別展覧会」が催され、「従来の御即位大嘗祭に使用あらせられたる/実物及び参考絵画を展示し一般に多大の感銘を与えた」由。

とあるから、全くの専門外とも云えない。
 結局、この問題の解決は「御卽位禮畫報」第十卷(大正五年七月十三日印刷・大正五年七月十五日發行・御卽位記念協會・一四二頁)一四二頁の次の頁に、余白を広く取って中央に、まづ大きく「禀  告」として、

本會發行赤堀又次郎先生著御即位及大甞祭著作權侵害事件/は曩に本誌第七卷に於て其眞想を會員諸君に訴へ置きたるが其/後幾多の曲折を經て今回芳賀關根兩文學博士の懇切なる斡旋に依り和田千吉氏及博文館より謝罪し來り圓滿に局を結ぶを得た/れば茲に改めて右之次第を會員諸君に御通告申上候也

とあって最後の行は上寄せで小さく「 大 正 五 年 七 月」下寄せでやや大きく「御 即 位 記 念 協 會  」とある。原文では白丸の傍点が打ってあるのだが再現出来ないので仮に太字にした。――三田村鳶魚と林若樹が和田氏の謝状を持参したのでは収まらず、半年以上経ってから芳賀矢一(1867.五.十四~1927.2.6)と関根正直(1860.三.三~1932.5.26)が仲介して収まったのである。
 しかし国立国会図書館デジタルコレクションの進化が恐ろしい。以前なら『三田村鳶魚日記』の記述から気を付けて、当りを付けて関係しそうな辺りを、図書館に出掛ける度に少しずつ探って行かないといけなかったのが、立ち所に判ってしまう。忘れ去られた悪事、恥ずかしい過去も簡単に掘り返されてしまう。あゝおそろしい。(以下続稿)

*1:5月28日追記5月15日付(55)三村竹清『不秋草堂日暦』大正4年11月6日条に見える山中笑の説明を引いて検討した。

*2:2024年4月8日追記】この記事を書いた頃、国立国会図書館デジタルコレクションでは『三田村鳶魚全集』は「送信サービスで閲覧可能」であった。但し全文検索の対象ではなかったので一々見当を付けて辿って行かないといけなかったが、しかし図書館から借り出さなくても記事の準備が出来た。ところが今『三田村鳶魚全集』は「国立国会図書館限定公開」となっている。久し振りに借り出して、色々な課題の続きに取り掛かる機会かも知れぬ。

*3:『目次」には「「御卽位及大甞祭」と「卽位禮」と「大甞祭」に就て 」とある。

*4:ルビ「ご そくゐおよびだいじやうさい・い ・しよ・よ ・さくねんおほやけ・このごろ・とうきやうはくぶんくわんはつかう・たいやう・ぞうかん・ご たいれいせいぎ ・なか/の ・わ だ ・きちし ・そくゐ れい・だいじやうさい・ちやうへん・ぶんしやう・み ・せつちよ・はなはだあひに・し 」。

*5:ルビ「とうきやうていしつはくぶつくわん・ぎ しゆ」。

*6:「集古會志甲寅一」は一頁に「大正三年一月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十七日印刷/大正四年十月二十日發行」、「集古會志甲寅二」は一頁に「大正三年三月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十八日印刷/大正四年十月廿一日發行」、「集古會志甲寅三」は一頁に「大正三年五月發行」とあるが奥付には「大正四年十月十九日印刷/大正四年十月廿二日發行」とあり、予定よりそれぞれ1年9ヶ月、同7ヶ月、同5ヶ月遅れ(!)で漸く「甲寅」大正3年(1914)3冊纏めて刊行されたのを、この日3冊纏めて「恵贈」されたのである。ちなみに「集古會志甲寅四」は一頁に「大正三年甲寅九月發行」とあるが奥付には「大正五年七月十二日印刷/大正五年七月十五日發行」、「集古會志甲寅五」は一頁に「大正三年甲寅十一月發行」とあるが奥付には「大正五年七月十三日印刷/大正五年七月十六日發行」とあって1年10ヶ月、同8ヶ月遅れで刊行されている。

*7:序「御穴様」他2箇所も同じ。但し正しくは「神奈川県橘樹郡旭村(現横浜市)」で現在は僅かに「瓢簞山遺蹟」碑(神奈川県横浜市鶴見区駒岡4丁目12番)が往時を偲ばせるのみ。鶴見川べりである。

*8:序「東京日々新聞(今の毎日新聞の前身)」。

*9:序『特輯版」。

*10:序「様」。

*11:序「〆切日」。

*12:序「為」。

*13:序「取纏め」他1箇所も同じ。

*14:序「数拾頁」。

*15:「丈」

*16:序「気付かって」。

*17:序「間」あり。

*18:「深更まで」云々の子息の回想が、和田氏にとって専門外であったことを雄弁に物語っているように思われる。