瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(55)

 昨日で赤堀氏の調査は一旦中断するつもりであった。しかし犬山赤堀家の系譜、赤堀象万侶の明治初年の消息、そして何よりも赤堀氏の著書、校訂書から窺える動向、言語取調所・日本図書館協会国書刊行会での活躍、完璧な著述目録、そして旧蔵書目録など、既に調べの付いていること(もちろん何処まで行っても「不十分」なのだが)粗方見当が付けられているような課題が山積している。いや、見通しが付いていてもそこからしっかり調べることが大変なので、見当が付いているように思っていても、これからどのくらい時間が掛かるか分からないのだけれども。だから、出来るだけ早く再開したいと思って、準備は続けるつもりでいる。
 しかし、中断する前に、昨日述べたこととも絡むので、これだけは取り上げて置こう。
三村竹清『不秋草堂日曆』(1)
 私が20年ほど前に調べていた笹野堅は、初め林若樹・三村竹清三田村鳶魚と云った人に近く、その後東京帝国大学文学部国文学研究室の副手となって『日本文学大辞典』や「国語と国文学」の編集に従事している。そうすると初め東京大学帝国大学)古典講習科に学び、雇員・助手・講師となって、その後、三田村氏に近くなった赤堀氏とは逆の経路を辿ったことになる。
 それはともかく、現在も「演劇研究」で連載が続いている竹清三村清三郎の日記『不秋草堂日曆』の翻刻に度々見える笹野氏の名前を拾い、一度は笹野家の複雑な事情まで書いてあるのに驚かされたのも懐かしい思い出である。
 しかし笹野氏が登場する頃の『不秋草堂日曆』はまだ国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていない。いづれ機会を見て複写を取って通読するつもりが、そんなことをしないでいるうちに所蔵している母校の大学図書館が利用出来なくなってしまった。

 赤堀氏については森銑三著作集』続編 第十二巻(逸聞篇三)(一九九四年八月一〇日初版印刷・一九九四年八月二〇日初版発行・定価6602円・中央公論社・568頁・A5判上製本)216~339頁に収録されている、雑誌「谺」に昭和24年(1949)2月から昭和41年(1966)12月まで連載していたコラム「閑々随筆」を歿後に小出昌洋が『びいどろ障子』と題して纏めたものの中に、298頁下段3行め~299頁上段12行め「竹清翁」と題する条があって、298頁下段8~9行め「‥‥。人から頼まれた用事で、演劇博物館に納つて/ゐる三村翁の日記の大正年間前後の分を通覧して、‥‥」とあり、そしてその次の条、299頁上段13行め~下段6行め「赤堀翁」に、「竹清翁の日記」に見える赤堀氏の逸話を紹介しているのである*1
 しかし、この話は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている「演劇研究」にはまだ出ていないようだ。よって、これは追って再開後に『森銑三著作集』続編に見える、赤堀氏の記述を纏めて取り上げる際に何とかしたいと思う。
 それはともかくとして、森氏の紹介によれば三村氏も赤堀氏に好意的であったように見えるのだが、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来る、大正6年(1917)12月30日までの分を見る限りでは、まだ赤堀氏とは良くなかったようで、会ったこともなく、かつ、かなり辛辣な記述が1箇所あるばかりなのである。
・「演劇研究」第十八号(平成七年三月二五日 印刷・平成七年三月三〇日 発行・早稲田大学〈坪内博士/記  念〉演劇博物館・170+11頁)
 117~170頁、三村竹清日記研究会 校訂・編集「三村竹清日記/不秋草堂日暦(三)/大正四年十一月六日~十二月 三十 日大正五年一月一日~二月二十三日」は、大正4年(1915)年末の1冊と大正5年(1916)年初の1冊を紹介している。
 その1冊めの巻頭、119頁下段5行め~120頁下段10行め「大正四年乙卯十一月六日」条、この日の朝、三村氏は「東大久保一九四」の「山中笑翁」を訪ねている。東京府豊多摩郡大久保町大字東大久保字天神前194番地は、現在の東京都新宿区新宿7丁目10番4号と5号6号の西側、「阪の下を右」の坂は久左衛門坂。
 そこで色々の話が出た中で、赤堀氏の話になる。119頁下段14行め~120頁上段10行め、原文は句読点や濁点、括弧類がないがこの際私に補って置こう。

‥‥博物館和田千吉君、この頃雑誌「太陽」とかへ大典儀礼何くれとかきしが、そは宮内省の料理など書、赤堀某の著せし書を言文一致に改めしまでのもの也とて、赤堀いかりて俣野藍田に告げしに、返り言もなきとて文に草して「日本及日本人」に出してくれとて三田村玄龍君に渡したり。玄龍君も諾ひしが、よくよく思ふに、和田氏は林若樹君、翁などとも心やすきなりと思ひて、翁にかたりしが、翁は取こみありし時なれば、林氏にかたりて奔走し居るとか聞く。
雪嶺三宅博士も此事にて和田氏をよびてかたりしとか。赤堀はあの為にいかほどの損耗をしたるなどいひし為、玄龍君は手をきりたりとか。いづれにもせよ苦々しき事なり。‥‥


宮内省」に傍注「これは間違、今日光東照宮に出仕、国文科を出た人」とある。現在の赤堀料理学園の赤堀家の人と間違えていたくらいで、このとき山中氏や三村氏は赤堀氏のことを全く知らなかったことが分かる。やはり赤堀氏は『紙魚の跡』の「序文」で三田村氏も述べていたように、三村氏などの側、つまり在野の人間ではなかったのである。「赤堀某」に傍注「又次郎」、また欄外書込に「山中笑号共古 江戸人 基督教退職教師」そして「和田千吉 幡州人 帝室博物館員 住小石川/赤堀又次郎」また「三田村玄龍 八王子人 政教社々員 今住下戸塚町/林若吉 林洞海孫 研海男 今住念仏坂」とある。これはもちろん山中・和田・三田村・林の各氏を知らないはずがないので、この1冊に初めて登場する箇所で、この冊から目を通すことになる読者のために、わざわざ註記したもののようである。そこで赤堀氏について何も書いてないのは、読み直してこの註記を書込んだときにも、三村氏は赤堀氏に対して、大した知識も興味も持合せていなかったらしいことが察せられるのである。
 さて、3月22日付(01)に引いた『三田村鳶魚日記』には、当事者2人と三田村氏の他には林若樹(若吉)しか登場しないが、ここにはこの話を三村氏に伝えた翁すなわち山中笑(1850.十一.三~1928.12.10)だけでなく、股野藍田(1838.八.二十一~1921.10.13)や三宅雪嶺(1860.五.十九~1945.11.26)まで登場する。――最初に三田村氏に持込む訳がないとは思っていたのだが、やはりまづ帝室博物館総長(1900~1917)の藍田股野琢に抗議して、無視された(!)ために、事情を明かすべく三田村氏に抗議文の掲載を依頼したもののようである。ひどいな股野。しかし赤堀氏が三宅雪嶺などにも相談したために三田村氏は手を引いた、と云うことになろうか。結局、関根正直芳賀矢一まで関わって来るのだから、かなり大きな騒動になってしまった訳である。
 さて、私はこの記述を読んで、さてこそと思ったのだが、三村氏は「苦々しき事なり」との感想で、赤堀氏には全く同情的ではないように読める。被害者側の気持ちというものは、そうでない者には分からないものなのである。(以下続稿)

*1:6月18日追記6月4日付(56)に「赤堀翁」を引用した。なお「竹清翁」の引用部、『びいどろ障子』では197頁8~9行めで改行位置「用/事」。