瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(21)

・赤堀象万侶⑥「赤堀氏旧記」1
 赤堀氏は、東京帝国大学文科大学講師時代「三重」を本籍地としていた。
 しかし明治初年まで犬山針綱神社神官であった赤堀象万侶の子である。かつ、明治20年代には犬山壮年會に参加、同年生れの犬山藩士の長男・水谷叔彦の英国留学に際して祝辞を述べるなどしている。犬山育ちらしく思われるのである。
 他に「三重」との関係としては、明治14年(1881)12月に閉鎖された神宮教院本教館にいたらしいこと、そして『〈明 治/十七年〉御會始歌集』に「久居 赤堀又次郎」と見えていることくらいしか見付けていなかったので、3月28日付(07)及び3月29日付(08)*1にあらぬ憶測を述べてしまったのだが、やはり当時の赤堀氏の本籍地は三重だったのである。
・「群馬県立歴史博物館紀要」第20号(平成11年3月31日 発行・群馬県立歴史博物館・161頁)
 145~162頁、須藤聡・簗瀬大輔「秀郷流赤堀氏の伝承と資料の調査」は、145頁上段~下段10行め「はじめに」と160頁上段16行め~161頁上段「おわりに ―今後の課題と展望―」が須藤聡(群馬県立新田暁高等学校教諭)簗瀬大輔(群馬県立歴史博物館学芸員)の共著、145頁下段11行め~152頁上段「一 赤堀氏の出自と系譜 ―中世の赤堀氏―」が須藤氏、152頁下段~160頁上段15行め「二 赤堀鉊三郎の記録 ―近世の赤堀氏―」が簗瀬氏の担当である。
 須藤氏担当分も関わらない訳ではないが、差当り簗瀬氏の担当分について見て置こう。まづ冒頭、152頁下段2~18行め、註の番号は句点の脇にあるが仮に句点の前に置いた。

(一)資料の概要
 旧佐波郡今井村の赤堀鉊三郎が残した記録に『赤堀氏旧記』と/『舊事舊事記』がある(10)。これは同家に関わる伝承・系譜類の記録/である。明治十五年に藤原秀脚を祀った唐沢山神社(佐野市)が/建てられたこと、明治二十九年に群馬県から墓所の所在調査が命/ぜられたことや、同族と称する県外の者の来訪・音信が本書作成/の契機となったと思われる。この種の記録類としては至って冷静/な叙述である。
 赤堀家は、近世後半より当地で酒造業を営む家で、第三十三代/久弥(大正二年没)は旧赤堀六ヶ村の初代小区長を勤めた。その/子で編者の鉊三郎は農業振興に勤めたという(11)。同家は昭和五十年/代まで中世文書写二通(由良文書・発智文書)を蔵していたが、/現在は所在不明である(12)
 両資料の形状は、『赤堀氏旧記』が縦帳袋綴・三八丁、『舊事舊/事記』が縦帳袋綴・一四丁で、明治二十年代から記録したり受信/した断片的な書簡類を、明治四十一年頃に冊子に綴じたものと思/われる。記述内容を分類すると次のとおりである。


 そして『赤堀氏旧記』の内容を整理して、
 A[赤堀家過去帳(抜粋)]
 B[村内の赤堀氏関係調査記録]【明治二十二~二十四年】
 そして153頁上段6~12行め、

 C[他県の赤堀氏関係聞き書き
  ア 『田原族譜』と唐沢山神社関係記録
                 【明治十四~二十二年】
  イ 赤堀象麻侶から      【明治二十九~三十二年】
  ウ 赤堀又二郎から      【明治二十九~三十二年】
  エ 生川鐵心から       【明治三十~四十一年】
  オ 赤堀威からの『赤城氏系譜』【明治二十九年】

としている。ここに赤堀象麻侶と赤堀又二郎の名が並んで、同じ時期のものとして見えているのである。『舊事舊事記』の内容(D・E)は省略する。
 この、各地に展開した赤堀氏についての記述を取り上げた、156頁上段7行め~158頁上段15行め「(三)県外赤堀氏の系譜に関する記述」の節に、より具体的な記述が見える。156頁上段8~20行め、

 次に、県外の赤堀氏関係者からの情報を中心に整理する。
 愛知県丹羽郡犬山町(現犬山市)の針綱神社の神官赤堀象麻侶/が、明治二十九年(一八九六)十月二十六日、唐沢山神社を参拝/し、翌日赤堀鉊三郎宅を訪問した。この時鉊三郎は象麻侶から赤/堀氏について種々聞き書きしている。これには赤堀象麻侶の次男/で、久居赤堀家の養子となった又二郎も同行していた。又二郎は/赤堀氏と秀郷の伝説を調査して出版する計画があるといい、記録/類から抄出した伝説を紹三郎に見せた。
 三重県四日市市在住の生川鐵心とは、おそらく赤堀又二郎の紹/介で交信するようになったと思われる。伊勢赤堀氏の支流と称し、/赤堀氏の系譜・伝説について種々送信している。
 京都府水上郡長の赤堀威からは、明治二十九年九月に東京の中/島徳三を介して「自家略系譜ニ上野國抄録等」を送られている。


 上田萬年の講演筆記に、赤堀象万侶が赤堀氏の父であることが見えていたが、ここには「次男」とある。長男のことはどうもよく分からない。そして久居との関係も「久居赤堀家の養子となっ」ていたからだと判明する。
 ただ、簗瀬氏はこの赤堀又二郎が学者の赤堀又次郎であるとは思わなかったのか、しかし平成11年(1999)当時でも、明治から昭和戦前に少なからぬ著書のある赤堀又次郎なる人物の存在には気付かないではなかったろうと思うのだが、確証が得られなかったため慎重を期したのか、その素姓については何ともしていない。そうすると赤堀氏を知らずにここを読む者には、赤堀氏は三重県の久居から愛知県犬山の実父のお供をして、赤堀家の祖先である藤原秀郷を祀った唐沢山神社参拝に来たように読めてしまう。簗瀬氏もその考えなのだろうか。『赤堀氏旧記』には「受信」を、封筒まで綴じ込んでいなかったのであろうか。
 『赤堀氏旧記』の所在だが、先の引用中の註、稿末161頁下段3行め~162頁上段「」の、161頁下段20~22行めに、

(10)赤堀恒雄氏蔵。群馬県立文書館寄託。
(11) 『群馬県姓氏家系大辞典』(角川書店・一九九四年)
(12) 『赤堀町史』下・一六八七頁(一九七八年

とある(11と12はついでに引用)。「群馬県立文書館 目録検索」で検索すると

請求番号 文書番号等 表題 年代 差出 形態・数量 文書群名
P8902 2 赤堀氏旧記(元和以降の旧記) 明治     竪1冊 赤堀恒雄家文書

がヒットする。現物を見れば封筒があるかどうか、あったとして東京の住所から出しているか、久居の養家から出したこともあったか、等、色々と分かることもあろう。大して分からんかも知らんけど。その前に簗瀬氏が紹介している内容について、もう少し見て置くこととしたい。(以下続稿)

*1:【4月17日追記】むしろ3月29日付(08)の方が妄想を逞しくしていたので「及び3月29日付(08)」を追加。