瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(10)

反町茂雄『一古書肆の思い出』2 賈を待つ者(2)
 昨日の続き。引用の要領は昨日に同じ。
 ①119頁5行め~120頁11行め②125頁4行め~126頁11行め、

 十一年に、市ヶ谷加賀町から、早稲田南町四へ引越されました。新居は夏目漱石邸のすぐそ|ばで、/広からぬ通りから、さらに狭い小路へはいりこんだ所、二階造りの、やや手狭*1の古家。|ここへも、こ/れまで通りに一年に五、六回ずつ参上し、いろいろな珍書を分けて頂きました。|博覧強記のお方で、/古書の事については、何でもよく御存じ、知識欲の旺*2んな、質問好きの若|者がお質*3ねすると、すぐに/明確に、説明して下さる。博識の御老体に時々見かける例ですが、|お話の筋がそれからそれへと発展/し、しばしば横に流れ伸びて、時には一つの質問に対するお|応*4えが、半時間以上にわたる。ついには/本流を見失って、「はて、何の質問だったかね」と、|主客顔を見合わせて大笑いする場面もありまし/た。一度の訪問に用談は十分、雑談は二時間く|らいが通例で、忙しい時には少々困りました。付け値/の高低については、関心は大きくなく、|一点ずつ付ける評価を、黙々と聞くばかり、終りに「ソウ/か」といわれると、それで決まりま|した。
 この間、訪問客は全くと申してよいほどない。電話のために立たれる事もありません。
 明治三十三年に原稿を完成された『国語学書目解題』を、三十五年に公刊された後は、翁の|【125】学術活/動は急に衰えました。大正の中期以後は学界から引退されていたと申してよいでしょう。|『解題』著/述への着手は、二十一年頃からのようで、翁はまだ二十歳代、二十年代の初めは、|日本の古典籍の、/善本と凡書との価格の差別は、まだ殆どつけられていない時代でしたから、|古写本でも古活字版でも、/必要に応じて、思いのままにお手に入ったのでしょう。三十年代か|ら、ポツポツ良いものは値上りし/始めますが、その頃に翁の蒐書は挫折したものらしい。
 以下は全く私の想像です。昭和十年前後の翁にとっては、蔵書はすでに御用済みのものでし|た。偶/然にお手元にとどいた「弘文荘待賈古書目*5」を開けて見たら、古今や源氏の古写本、伊|勢物語・住吉/物語の古活字版などが、思いがけなく写真入りで叮嚀*6に解説され、相当の高い売|価がつけられてある。/そんなもの探せば探せば手元のそこここに、久しく死蔵してある。「で|はそれを売って、婆さんをよ/ろこばせてやろう」というような心持で、弘文荘宛のハガキを出|された。そんな筋道のように、推測/されるのでした。


 早稲田南町は住居表示が実施されていないので漱石山房があった牛込区早稲田南町7番地、すなわち現在新宿区立漱石山房記念館がある場所はそのまま新宿区早稲田南町7番地である。その東隣が4番地。私は漱石山房記念館が出来る前、まだ低層の公営住宅が建っていた頃に通り掛かったことがある。確か早稲田の演劇博物館で和本を閲覧して、そのまま散歩がてら歩き出して、曇った夕方、早稲田通りを渡って、細い通りに入り、早稲田小学校の脇を過ぎ、そして公営住宅を取り囲むような空地(公園)を歩いたことまでは覚えているのだが、その後市ヶ谷に出たのか、飯田橋まで歩いたのか、全く思い出せない。
 それはともかく、前回の引用に見えた赤堀氏の全く風体に構わないところは、3月28日付(07)に引いた「気むずかしい」或いは「狷介で自尊の風が横溢した性格」と云う評に合うようである。しかし反町氏に対する姿勢は違っている。いや、学者間の評判とは矛盾しないと見るべきであろう。若い頃の「犬山壮年會雜誌」に見える活動等を見ても、これから学ぼうと云う者には出し惜しみしない、親切な人だったのではないか、と思うのである。
 とにかく、反町氏のこの記述から分かるのは、【1】赤堀氏が古稀を過ぎても博覧強記、頭脳明晰であったこと、但し【2】話に纏まりがなくなると云う面で老いが現れていたこと。【3】訪問客も来電もないこと。それから、【4】反町氏が赤堀氏のことを『国語学書目解題』を著した国語学者で、【5】既に「学界」を「引退」した「隠者」と捉えていたこと、である。
 しかし、ここに少々問題があると思うのである。【1】【2】は良い。【3】も、確かに反町氏が訪問したときの体験として間違いないのであろう。しかし反町氏が【4】のように、赤堀氏の業績を『国語学書目解題』のみに止めていることは、赤堀氏の別の側面、すなわち大正初年の『御即位及大嘗祭』と云った側面を見落としているように思われるのである。それから【5】の「隠者」と云う理解――確かに、当時の赤堀氏は論文執筆など、学術活動のようなことはしていなかったようだ。しかし、世間から退隠した存在であったかと云うと、実はそうではなかったのである。国学の流れを汲む伊勢の神宮教院に始まる赤堀氏の知的営為は、国語学・国文学の方面とは別に『御即位及大嘗祭』と云った方面へも展開しており、そして晩年は、実はそちらの方面の(研究活動ではなく)言論活動がメインになっていた。「隠者」などでは決してなく、生涯現役であった。しかしながら古典籍商として研究熱心であった反町氏には、そちらの活動が全く視野に入って来なかった。ために、市隠がかつての現役時代に蒐めた本を老妻に少し贅沢をさせるために売ったのではないか、との想像になったものと思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「て ぜま」。

*2:ルビ「さか」。

*3:ルビ「たず」。

*4:ルビ「こた」。

*5:ルビ「たいか 」。

*6:ルビ「ていねい」。