瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(46)

赤堀又次郎の歿年(1)
 前回、赤堀氏が昭和20年(1945)1月号まで雑誌2誌で言論活動を行っていたことを指摘した。
・月刊「日本及日本人」第四百三十九號(昭和二十年一月號)(昭和二十年一月五日印刷納本・昭和二十年一月八日發行・定價五拾錢・政教社・三十二頁)
 この号には27頁1~2段め(4段組)に伊勢神宮に関連した「神都・神領」を寄稿している。月刊「日本及日本人」はその次の第四百四十號(昭和二十年二月號)(昭和二十年二月五日印刷納本・昭和二十年二月八日發行・定價五拾錢・政教社・三十三頁)を最後に休廃刊に追い込まれたようだが、この最終号には赤堀氏は寄稿していない。
 月刊誌の一月号の寄稿であれば年末が締切だろうから、年明けまで確実に生存していたかどうかは分からない。編輯後記のようなものもなく、寄稿者の動向を細かく伝えるような態勢にはなっていないようだが、赤堀氏ほどの人物であればもし年末までに死去しておれば、二月号に何か記事が出そうな気もするのだけれども。
 1月号への寄稿はもう1誌ある。こちらは年末の印刷納本になっている。
・「大日」第三百二十一號(昭和十九年十二月廿八日 印刷納本・昭和二十年 一 月 一 日 發  行・定 價 金參拾錢・大日社・一六頁)
 五頁の大半が赤堀又次郎「たぶつく債権」である。時流故か、それとも赤堀氏側の事情のためか、㈡以降は発表されなかったが、しかし3回以上の連載を見込んでいたのである。内容は時事評論と云うべきもので、まだまだ赤堀氏の意欲が衰えていなかったことが察せられる。
 これも二月号までで休廃刊を余儀なくされたようだが、赤堀氏の続稿は載っていない。しかしながら、この二月号により赤堀氏の歿年を昭和20年(1945)と確定出来るのである。

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 さて、私は10年以上赤マント流言の調査をしていて、版元もしくは発表先を募集中なのだけれども、国立国会図書館デジタルコレクションの刷新でこの度初めて水島爾保布「巢鴨にて」に赤マント流言の記述があることを知ったのだった。私は文献を探り当てると、筆者がどのような人物なのか、連載の場合はいつからいつまで続いてどのような内容だったのか、そして掲載誌がどのような雑誌なのかも念のため確認することにしている。かつて「本道樂」や「セルパン」を調査したときには何日もかかって大変だった。寄稿していなくても何処かに名前が出て来るかも知れないと思って、大学図書館で揃いで出してもらったときに通い詰めて一応全号目を通したのである。しかし今や、全文検索の威力で見落としそうな訂正や埋め草まで立ち所に判ってしまう。
 水島氏が「巣鴨にて」を連載していた「大日」についても、2月22日付「赤いマント(357)」に見たように、検索で誌面を閲覧しなくても大体のところは分かってしまうからその必要はないのだけれども、念のため創刊号から暫く眺め、そして検索で水島氏の連載が何時始まったのかを確かめ、そして事実上の終刊号に至ったのである。
・「大日」第三百二十二號(昭和二十年一月廿八日 印刷納本・昭和二十年二月一日發行・定 價 金參拾錢・大日社・一六頁)
 一六頁上段囲みの最後に、

社告】今回信濃毎日新聞社の北條爲之助氏は本誌の編輯顧問に就任せらる。

とあるから、予定された休刊・廃刊ではなく、急に続刊出来なくなり、そのまま廃刊に追い込まれたものらしい。
 なお、国立国会図書館蔵書は322号中、12冊が欠けている。大学図書館にも揃いで所蔵しているところはなく、昭和20年(1945)まで所蔵しているのは一橋大学附属図書館のみ、やはり322号までである。
 さて、本誌がどのように終焉を迎えたのかを念のため確認すべく、この事実上の終刊号を念入りに眺めて行ったのところ、この【社告】を載せた一六頁の上2/3を占める囲みは一五頁上段から始まっていて、2頁にわたって「一月十四日米夷犯外宮神域誠謹賦」「米夷神域冐恐懼謹詠」と云った、1月14日の宇治山田空襲で外宮が爆撃を受けたことを悲憤慷慨する詩歌、それから「社頭寒梅」の題詠、新年を迎えての「新年雜詠」「乙酉正月口占」なる和歌や漢詩を載せているが、一五頁上段の3人め(10~12行め)に無題で、

                   赤  堀  又  次  郎
罪は去るまがごとも去る今年こそ幸を取り勝を取り取る
紫の雲のをちにも鷄なきてわが日の本の勝どきをあぐ

とあるのである。
 昭和19年(1944)の干支は甲申、昭和20年は乙酉。十二支に掛けて新年に日本の勝利を祈念した、歳旦詠となっている。
 ここに掲載されている詩歌は、宇治山田空襲を詠んだもの等、年明けに読者から郵送されて来たものを纏めて掲載したらしく思われる。赤堀氏の歌にはそのような背景はなくて新年を迎えて新しい年への期待をとにかく目出度く詠んだ歳旦詠である。仮に年末から準備していたとしても、新年に披露するものであり、赤堀氏もひとまづは無事に新年を迎えていたと思われるのである。
 赤堀氏は12月に書き上げた原稿を1月号2誌に寄稿している。反町茂雄が想像したような「病床につ」くようなことは最晩年までなく、数えで八十歳の新年を迎えたのであった。
 さて、1月1日を生きて迎えたことは確実として、5月25日の山の手空襲までに死去していた。――反町氏は未亡人から受けた印象から「二、三年前になくなりました」と書いたのだが、確かに死去間もなく空襲に遭ったような印象ではない。「大日」2月号に続稿が載らなかったのも、或いは健康上の理由かも知れない。
 ただ、未亡人に「大事な書物だから、万一の場合には持ち出す様に」と遺言していたのは、それこそ3月10日の下町大空襲、このときに子息(と思われる)で当時満洲に渡っていた赤堀秀雅の母校、牛込区市谷加賀町1丁目の第四中学校も被災、かつて赤堀氏が住んでいた2丁目も一部が被災している。市谷加賀町の辺りは4月13日にも空襲に遭っている。
 歳旦詠では戦勝を祈念した赤堀氏も、これで早稲田界隈の空襲も遠くないことと覚悟を決めたのではあるまいか。
 そんな想像をしてみたくもなるのだが、別に「万々一の場合」と云うのは空襲に限らない。失火や類焼、地震などの自然災害もあり得るので、今は1月以降として置くより他はない。
 とにかく、これで赤堀又次郎の生歿年は確定出来た。慶應二年(1866)九月十日に現在の愛知県に生れ、昭和20年(1945)の、5月までに、恐らく東京都牛込区早稲田南町四番地の自宅で死去したのであろう。時期が悪く昭和7年(1932)から寄稿を続けていた雑誌が休刊になり、東京も大規模な空襲に繰り返しさらされ、京都帝大卒業の子息は満洲に在って不在、死亡通知など為されなかったために、平時であれば当然死亡記事が出てもおかしくないくらいの執筆活動を晩年まで続けていたにも関わらず、長らく何時まで生きていたのか、分からなくなってしまったのである。(以下続稿)