瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(4)

小木新造 監修/槌田満文大串夏身佐藤健二吉見俊哉 編集・解説『復刻『江戸と東京』』第四冊(2)
 佐藤健二解説3◉『江戸と東京』瞥見――巻頭言と広告を読みながら――」の最後の段落(373頁12~14行め)に、

 全体としてどんな意味がありうるか、予測がつかない部分も多いが、復刻に関連する作業をすすめるために手渡さ/れたコピーを一覧し、統合した目次や著者別索引を作成し、ついでに広告などを切り抜いて簡単な整理をしてみるな/かで、気のついた断片について感想を記してみた。解説というより、ノートとしてお読み下されば幸いである。

とあって、397~419頁「江戸と東京 全四冊 * 総目次」421~447頁「江戸と東京 執筆者別目録」を作成したのは佐藤氏と分かる。最後、横組み左開き(頁付なし)で4頁、「事 項 索 引」があるがこれは版元の作成なのだろう。325頁(頁付なし)の扉「解説/石角春之助年譜・著作目録/総目次/執筆者別目録/事項索引」の裏、326頁が巻末までの目次になっているが、ここでは「事項索引」を「巻末」として頁を示していない。従って頁付があるのは447頁までである。ただ第四冊の頁数は「事項索引」まで数えて9月12日付(1)では452頁として置いた。
 解説は他に、327~343頁、槌田満文解説1◉ 江戸・東京研究雑誌の系譜――『江戸会雑誌』から『江戸と東京』まで――」、344~359頁、吉見俊哉解説2◉ 石角春之助とトポスとしての盛り場」があって、それぞれ石角春之助と「江戸と東京」の位置付けを窺う参考になる。
 しかし私はまだ全体を取り扱うほど石角氏の仕事と「江戸と東京」を読み込めていない。ここではもう少々、補足的事項の追加を試みるに止めよう。
 前回注目した松尾禎三を「江戸と東京 執筆者別目録」で検して見るに、439頁下段16行め「松尾禎三」の名はあるが、執筆しているのは17行めに挙がる「石角さんを憶ふ」のみで同じ行の下に「六―一20④282」と収録位置が示される。第六卷第一號「石角春之助追悼」号の20頁(復刻第四冊282頁)を見るに、20~21頁(復刻第四冊282~283頁)見開きは上・中段の2段を島東吉「石角春之助の顔」に当て、横線で句切って下段を松尾禎三「石角さんを憶ふ」に当てている。但し21頁の中・下段の左9行分は囲みの広告になっている。
 松尾氏の文章は、20頁下段5行め「わたしは上京する度に」石角氏のアパートを訪問した、その追憶を語っている。少なくとも4度は会っている。そして31頁下段7~15行め、

 私しはいつか舊著に
 愛し得ぬ妻も子もなきわれこそは/ 『江戸と東京』をわが子とぞ見る
 正月に金なく生活す哀れさよ寝て/ は起きては又寝るならむ
などと誌される故人の熱と力その足/のあとをしみ〴〵となつかしみ今更/ながら上京の一つの樂しみをうしな/いました。

と締め括っているが、ゆったり組んでいた30頁と違って行間を詰めて中段は13行であったところに15行詰め込み、かつ末尾が何だか変である。編集に際し端折られてしまったのではないかと疑っている。それはともかく、松尾氏が引用する石角氏の狂歌2首のうち1首めは9月14日付(2)に触れた、「解説3◉『江戸と東京』瞥見――巻頭言と広告を読みながら――」の372頁に「合本の寄せ書きから」として影印で4つ示されるうちの右上にあって、

愛し得ぬ   春之助
 妻も子もなき
われこそは
 江戸と東京を
わか子とそ見る

と判読される。2首めもこの復刻の底本となった松尾禎三旧蔵本にあるであろうか。出来れば「江戸と東京」誌だけでなく、この「記念帖のような部分」も全て紹介してもらいたかった。松尾禎三旧蔵本は明石書店が今も保管しているのであろうか。
 事のついでに「石角春之助年譜・著作目録」及び「付・『江戸と東京』簡単な書誌解題」を担当している大串夏身が、平成18年(2006)2月24日に国立国会図書館関西館(大会議室)を会場として開催されたフォーラムの基調講演で、この復刻版について語っているのを取り上げて置こう。
国立国会図書館関西館事業部図書館協力課 編集『第2回レファレンス協同データベース事業参加館フォーラム記録集』2006年5月30日発行・国立国会図書館関西館事業部図書館協力課・83頁
 12~26頁、基調講演「レファレンス協同データベースの可能性/-レファレンス事例と調べ方マニュアルの研修効果と実践-がそれで、その13頁左8~27行め、

 資料面での充実については、こんな話があ/ります。
 十数年前に、兵庫県出身の石角春之助⁵と/いう方の書誌を作りました。『江戸と東京』⁶とい/う雑誌の復刻を出した時、その解説で作った/ものです。その当時私が調べた限りでは、国/立国会図書館が持っていた資料は、カードで/6枚、つまり6点でした。それで実際に出納を/お願いしたら、出てきたのは4冊で、「後の2/冊は?」と聞きましたら、「どうも亡失らしい」と/言われました。結局 4 冊しか手にできなかった/のですが、石角春之助という方は、『日本書籍/分類総目録』⁷などを調べますと40数冊書い/てらっしゃいます。
 先日NDL-OPACで、著者名で検索しまし/たら、30冊くらい出てきました。この十数年間/にかなり充実が図られています。私も、あれが/ないこれがないと言いながらいろいろ検索す/るのですが、最近「あった」という件数が多くな/ってきています。

とある*1。註は省略した。
 今は更に国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索で多くの情報を拾うことが出来るようになっ(てしまっ)たのだが、石角春之助についての追究は先達にお任せして、この辺りで私は、本雑誌を取り上げたいと思った本来の目的に話を進めたいと思う。(以下続稿)

*1:9月20日追記】20年程前に、所在を知られていなかったある本の関連資料を漁る目的で古典籍資料室に行き、目録を繰ると、何とその本が載っている(!)のである。どうも、昭和初年に帝国図書館に収蔵された当時の目録に何故か載らず、戦後は館内の人間が言及するのみで、その後に出た目録には載ったのだけれども、その分野の研究者にはそのことが全く気付かれていなかったのである。もちろん今は国立国会図書館デジタルコレクションでカラー画像が閲覧出来るし、全文検索によって戦後、館内の展示に出陳されていたことも分かった。要するに、きちんと判断出来る人が見なかったから、全く埋もれていた訳でもないのに意識されなかったのである。――私が遺漏なきよう周辺も当たるようにしているのは、そもそも色々遺漏があるものだからである。