瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(13)

 昨日の続き。
・「江戸と東京」第三卷第一號 昭和12年(1937)1月1日発行
 38~39頁、馬上義太郎「淺草から消えた名物」は、前半、39頁上段4行めまでが「◯ 花  屋  敷」で、後半が「◯ 十  二  階」である。見出しは3字下げ。

 そろ〳〵大東京にも十二階を知らざ/る住人の數が増加して來たやうである/が、今思ひ出しても、全く、奇妙きて/れつなものを健てたものだわい。あの/建物は、假りに關東大震災によつて瓦/崩しなかつたとしても、一九三七年の/今頃まで帝都の眞ん中に(たとへそれ/が淺草であらうと)突つ立つてゐやう/などとは考へられない。十二階は、吾/々などの物心のつく以前から建つてゐ/たのだが、吾々が物心のついた頃には/もうあの建物を如何にして取り壊すか/と云ふことについて人々は苦心してゐ/た。それにもう一つ、十二階は何時、/自らの力によつて自然に崩れて來るだ/【39上】らうかと云ふことが、一種恐怖をもつ/て、噂されてゐた。とに角、吾々が物/心ついて以來の十二階は最も不景氣な/存在であつた。最初は景品に過ぎなか/つた都櫻水、井田寒三一派の芝居が可/成り人氣を博してゐたやうである。け/れども、御本尊の十二階のてつぺんに/は、物日以外には餘り人影を見ること/がなかつた。世の中がだん〳〵進歩す/るに連れて、人々は親讓りの足を働か/せることを厭ふやうになつたことに氣/のついた經營者は、その頃としては珍/らしいエレベーターを設備したところ/は氣がきいてゐたが、今度は、エレベ/ーターと云ふものが如何に恐しき危險/を伴ふものであるかと云ふ噂がまこと/しやかに取沙汰されて、此の妙案もさ/したる成功を、収めなかつたやうであ/る。も一つ、甘酒無料接待と云ふ客引/戰術があつた。甘酒で思ひ出したこと/【39中】が一つある。接待の甘酒は一ぱい切り/で、お代りは、金何錢かを要するので/あるが、どうも最初のその接待のやつ/にはヂヤリ〳〵砂が入つてゐて、代金/を出す方には、別にそうした異變がな/かつた。これはそうした規定になつて/ゐるのか、それとも、此處は、雲の上/であるから、最初の一ぱい目は、まだ/吾々の口中に下界の汚れが殘つてゐて/ヂヤリ〳〵するのか、今でも、時々、/變なことをしやがると思ひ出すんだが/ね――。だが十二階の頂上からのなが/めは素敵であつた。文字通り下町が一/望の下に見渡せる。あゝ下町やの絶景/であつた。ところが、頂上からほとん/ど九十度の直下を見下すと、其處には/吾々にとつて、はなはだ面目を害する/一角が展開してゐる。


 最後に2行取り下寄せで「(以下次號)」とあるのだが、恐らく十二階下について書かれるはずだった続稿は掲載されなかった。
 エレベーターは開館当初にもあったが半年ほどで使用禁止になり、大正3年(1914)に6階まで再設置されている。この辺りは細馬宏通『浅草十二階』及び佐藤健二浅草公園 凌雲閣十二階』と対照して考証すべき箇所なのだが今は本文の紹介に止めて置こう。「エレベーター」の「恐しき危険」とは、或いは2019年5月30日付「elevator の墜落(1)」に取り上げた噂ではないかと思うのだが、大正期にこの話が既にあったかどうか。
 馬上義太郎(1902.9.15~1971.1.6)はロシア文学者で、こんな文章を書いているところからしても地元の人間であると察せられる。佐藤健二作成の「江戸と東京 執筆者別索引」を見るに、他に「花屋敷の獺  二―七22①314」と「思ひ出の花屋敷  五―三50④180」を書いていて、合計3本「江戸と東京」に花屋敷に関連した寄稿ばかりをしていたことが分る。
・「江戸と東京」第二卷第七號 昭和11年(1936)7月1日発行
 表紙には記載がないが「目次」には上に囲みで[◇頁・輯・特・敷・屋・花◇]として前に「――江戸から東京への花屋敷の變遷――」後に「――失はれんとする花屋敷の全貌――」との副題らしきものに挟まれて9つ、掲載順でなく並んでおり、その3つめに「花屋敷の獺」が見える。なお7つめに載る「在りし日の花屋敷」の「馬上ふじ枝」は、「江戸と東京」に合計3つ、連作短歌を寄稿している。乳児に授乳する短歌のあるところからして、馬上義太郎の妻ではないかと思って検索するに、日本短歌社 編『歌集「戦線の夫を想ふ歌」』(昭和十六年五月 一 日印刷・昭和十六年五月 五 日發行・定價二圓三十錢・日本短歌社出版部・前付+7+240頁)159~160頁に「馬上ふじ枝」の9首が掲載されており、7頁の「目次」の5頁5行めには「愛  知」また「陸 軍 上 等 兵 馬上義太郎氏夫人」とある。「愛知」は本籍だろう。
 22~23頁「花屋敷の獺」は、題目通り花屋敷にいた獺を主題に「失はれんとする花屋敷」の動物について述べたもので、22頁下段1~5行め、

‥‥、もう耄碌する頃になつて、どう云ふ風の吹き廻はし/か上野の動物園へ引取られた。此獺は名前をタケと云つて、/私の死んだ親父が上野までよく訪れて行つた。元來私の親父/は三十年近くも花屋敷へ鰌を納めてゐたので、鰌を常食にし/てゐた獺とは自然親しい仲になつてゐたらしい。‥‥

とあって、23頁上段12~17行めには「震災の時」の「親父」の行動についての回想もあるがこれは割愛しよう。とにかく地元のそういう業者の伜であったことが分かるのだが、これについては石角氏の著作に見えていた。
・石角春之助『淺草經濟學』(昭和八年六月十日印刷・昭和八年六月十五日發行*1・定價一圓五十錢・文人社・口絵+18+553頁)
 136~241頁「第 三 章 淺草食堂經濟組織の變遷」147頁10行め~160頁10行め「第二、淺草に於ける鰻料理の變遷」147頁11行め~150頁8行め「(一) 古き歷史を持つ鰻料理の發達」に、次の記述がある。149頁5~8行め、

 それから明治三十年頃に、前後して開業されたものに、北仲町の神田家と、千束町二丁目の茗荷/屋とがある。茗荷屋は現在エロス堂書店となつてゐる。何んでも震災前までは、三階建ての可なり/立派な家で、天然鰻專門で人氣を集めてゐたが、震災後間もなく、今のエロス堂の主人馬上義太郞/君が、學生肌の人で、かうした水商賣を喜ばない處から、遂に書店に早替りしたものである。


 この「親父」の年齢は石角春之助『乞食裏譚』(昭和四年七月二十六日印刷・昭和四年八月 一 日發行*2文人社出版部・一一+二〇四+附 一八頁)にて判明する。前付は一~二頁「自序」で三~一一頁「目  次」になっているが、「自序」の最後、二頁10~13行め、

 本書を起稿するに際し、知友佐藤紅霞氏、馬上義太郞氏の尊父(六十三歲)其他二三の知友諸/士より、多大の同情と好意を寄せられた事を末筆ながら、玆に厚く感謝しておきます。
  昭和四年櫻の花の吹く頃
                             石 角 春 之 助

とあって、慶應三年(1867)生で、昭和11年(1936)春に花屋敷の動物が仙台に移される以前に死去していたことが分る。
 さて、馬上義太郎が茗荷屋を廃業して開業した「エロス堂書店」だが、普通の本屋だったらしいのだけれども1冊だけ、本を出版しているのである。
日野春助『詩 集 赤兒の首を切る』昭和四年六月十九日印刷・昭和四年六月廿九日發行・定價壹圓・エロス堂書店・7+117頁
 「發行者」は「馬上義太郎」で、発行者の住所と「發行所」の「エロス堂書店」の所在地は「東京市淺草區千束町二ノ二五四」で一致。東京市浅草区浅草千束町2丁目254番地は現在の台東区浅草3丁目16番辺りになるらしい。
 そうすると凌雲閣からは北北東に270mほど、すなわち全く地元で生まれ育った人間の印象であったことが諒解されるのである。(以下続稿)

*1:国立国会図書館デジタルコレクションはマイクロフィルムに基づく白黒画像だが、印刷・發行日の日付は活字だけれども、紙を貼ったか、貼った紙が剥がれたかしたように見える。發行日の「十五」が1字分のところに半角で詰まっているところからすると前者か。

*2:国立国会図書館デジタルコレクションはマイクロフィルムに基づく白黒画像だが、印刷日の「六」と發行日「八」と「一」は明朝体の印を捺した紙を貼付したように見える。