瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(14)

 昨日の続き。
 私は馬上氏のことは昨日初めて調べて見たような按配で、ネット上の人名事典の知識をベースに、国立国会図書館デジタルコレクションでヒットする著述の題目を眺めて見たくらいでしかない。佐藤健二浅草公園 凌雲閣十二階』巻末の「索引」には出ていない。
 復刻『江戸と東京』第四冊の巻末の「事項索引」も119項しかないので記事中の人名や店の名前などは殆ど拾っていない。
 だから他にもあるかも知れないが、差当り次の号に石角春之助『浅草経済学』の後日談とも云うべき記述があることに気付いた。
・「江戸と東京」第三卷第七號 昭和12年(1937)7月1日発行
 20~21頁の見開きは囲みで、界線で上・中段と下段に仕切られているが、上・中段が山本英二「東京飮食屋案内」である。執筆者の山本英二は第一卷第二號から第三卷第三號まで10回にわたって「大東京色とり〴〵評判記」を連載していた山本榮二と同一人物である。と云うのも、冒頭、20頁上段1~9行め、

 私は嘗つて本誌を通じ『大東京色とり〴〵/評判記』を毎號發表してゐたが、此度又、編/輯者の要求によつて、以上の如きタイトルで/評判記に似たものを毎號連載することにした
 何に分にもスペースのない本誌であるから/私の爲めに與へられた誌面は、僅々二頁に出/でないので、思ふ存分な批評は出來ない、し/かし、出來る限り廣範圍に渉つて、特殊な飮/食店の解剖紹介をする積りである。

とあるからで、しかし9月に「江戸と東京」第三卷第九號を出してからしばらく休刊し、昭和13年1月に「新文化」と改題して復刊するのだが、山本氏の連載は復活することなく、山本氏の執筆もこれが最後となってしまったようだ。
 ここには、20頁上段10行め~21頁上段23行め「◇江戸前鰻のめうがや」と21頁上段24行め~中段24行め「◇淺草一番の須田町食堂」の2軒が紹介されている。

   ◇江戸前鰻のめうがや
 江戸前鰻と云つた處で、食味の衰へた今日/の大衆には、何が何んだか解らないであらう/が、元來江戸前鰻と云へば、小安から玉川に/至る間で、とれた鰻を稱したもので、而かも/此の間でとれた鰻は、素晴らしく美味しいの/である。處が、今日では、江戸前鰻の看板を/出しながら、其の御本尊が、江戸前の何んた/ることも知らず、甚だしいものになると、養/成鰻專門の店でありながら、どう〳〵と江戸/【20上】前の貴い言葉を使つてゐると云う馬鹿馬鹿し/い世の中である。
 然るにこゝに紹介せんとする『めうがや』は/主人夫妻が、江戸つ兒で、而かも、此の『め/うがや』は、二代目に渉る鰻屋で、先代のめ/うがやは、淺草千束町二丁目の現在エロス堂/書店で、震災ちよつと前までやつてゐたので/ある。開業は明治三十年とあるから、千束町/の通りが漸く出来た許りの頃で、此の邊の飮/食店としては、老舗に屬してゐたものだつた/が、長男の馬上君が、かうした水商賣を好ま/ないので、現在の書店に替つたものである。
 處が、此度日本橋區兩國に、馬上君の姉さ/んが『めうがや』の名の下に、江戸前鰻屋を/始めた。此のめうがやは、無論、淺草のめう/がやの延長で、其の人こそ違つてゐるが、其/の内容實質には變りがない。何故つて、幼い/時分から馬上老人に從つて、さま〴〵な秘訣/を會得した姉さん達が開業した店であるから/【20中】だ。
 僕は、開店日ならずして、早速出かつて行/つて、めうがやの食味を味つて見たが、流石/は、馬上老人に仕込まれた人達の料理だけあ/つて、よい材料を使つてゐる。
 殊にうな丼三十錢と云ふ看板に驚いた。こ/れだけ精選した材料を使つて、よくも三十錢/で商賣になることだと思つたからである。養/成鰻のぴしよう〳〵のものでも、五十錢から/とつてゐる今日、天然鰻の中でも上等のもの/を使つてゐるのだから、驚いたのも無理はな/い。
 東京市内には鰻屋は、千軒以上もあるであ/らうが、天然鰻專門に使つてゐる店は、ほん/の指折り數へる程である。大きな看板の店で/すら、養成鰻でごまかしてゐる時代なんだか/ら、此の勉強振りも、却々解らないかも知れ/ないが、しかし、だん〴〵と大衆が、眞面目/になつて行くに從ひ、かうした實質本位の店/が認められる時代が來るであらう。
 本誌は、かうした特種な店を徹底艇に紹介/する責務があるので、今後大いに宣傳紹介の/勞をとることにする。


 前回見た馬上義太郎「花屋敷の獺」によれば、馬上老人は震災直後、家族そっちのけで獺に喰わせる鰌の調達に奔走していたとのことだが、店の方は罹災して廃めたのではなくその前に閉じていたらしい。
 「東京飮食屋案内」の続稿は掲載されていない。第三卷第八號は復刻版には含まれておらず、本誌をほぼ揃いで所蔵する関西学院大学図書館*1でもやはり欠号になっている。出なかったのかも知れないが、第三卷第九號56頁上中段「編 輯 後 記」の、上段14~15行め「 本號は、お約束通り『江戸と東京への女特/輯號』としましたが、‥‥」とあるところからして、その予告のある第八號が出ているのではないか、とも思うのだけれども、どうしようもない。その第九號47頁下段(3段組)左9行分を取って、波線で囲った「め う が や」の広告が載る。店名は中央下寄りにゴシック体で大きく、枠の右上にやや大きくゴシック体で「江 戸 前 鰻」、左下に明朝体で小さく「日 本 橋 ・ 兩 國/ス ズ ラ ン 通 り」とある。東京市日本橋区両国のスズラン通りは、現在の中央区日本橋2丁目のすずらん通りであろう。この広告は実は第七號にも、「東京飮食屋案内」が載るすぐ前の19頁下段(3段組)左7行分に、やや狭いが同じ字配りで掲載されていた。前後の号にはないようだ。いや、前の号まではほぼ毎号、弟の店の広告が載っていたのだが、これについては次回に廻すこととしよう。(以下続稿)

*1:OPACで検索するに、第六卷第二號のみ所蔵していないようだ。