瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

石角春之助 編輯「江戸と東京」(3)

 前回の補足。
 佐藤氏が「追悼号の斎藤の回想(㉗)」と云っているのは、第六卷第一號16~17頁中段9行め(復刻第四冊278~279頁)に収録される斎藤昌三風の如き春之助君」であるが、この文章は次の本に再録されている。
・少雨叟第六随筆集『書齋隨歩』昭和十九年三月十五日印刷・昭和十九年三月十九日發行・賣 価 金參圓八拾錢・書物展望社・序+八+三七二頁
 251~三〇八頁「苦樂篇」7篇のうち4番め(二七二~二七五頁)が「風の如き春之助君」で、大きな書き換えはない。以下、①初出本文を示し異同箇所を灰色太字で示し註に②再録での形を示した。ついで改段・改頁位置も示して置こう。改行位置は①初出は「/」②再録「|」で示す。
・①16頁上段15行め~中段3行め≒②二七二頁9行め~二七三頁3行め、

‥‥、來れ|【②二七二頁】ばいつまでも心よく/話合ふことが出來た。【①16頁上】
 そんな正直な男だけに、彼の推薦で/二三年浪人してゐた××××君*1を採/用した|が、‥‥


・①16頁中段16行め~下段2行め≒②二七三頁9~10行め「‥‥、それにつけても/【①16頁中】僕からも感謝したいのは長|谷川伸氏だ*2/仄かに聞けば、‥‥」
・①16頁下段7~8行め≒②二七三頁12行め~二七四頁1行め「‥‥、僕の所へ來ると必ず/この人|【②二七三頁】情作家長谷川さんの噂が出た。/‥‥」
・①16頁下段14行め~17頁上8行め~≒②二七四頁4行め~二七五頁1行め、

 石角君の後援者の一人に名古屋の松/尾禎三氏も擧ぐべきであらう。僕はだ面識はないが文通はしてゐる*3
 この松尾君は荷風ものを蒐集してゐ/るので、石角君は僕の手許にあつた荷/風の紙|片など見つけ出して、是非割愛/してくれとせがむまゝにやつたことも/あるが、これ|らも多分松尾君の日頃の/好意に酬ひる方便に使用さるゝものと*4ありさへすれば僕|は心よく與へもした*5【①16頁下】
 井東憲*6の話では石角君は未だ五十に/も滿たなかつたとあるが、僕は僕と同/年輩|位に思つてゐた。義齒をいつもリ〳〵*7させて居たから、僕としては餘/計にさう見|たのだが、でも晩年は多少手入れしたものか、前ほどは外れかゝ/ることもなかつた|【②二七四頁】ので、懷中具合を推察したことがあつた。


・①17頁上段15~16行め≒②二七五頁5行め「‥‥。無論座ぶと/んは一枚ぎり*8で、‥‥」
・①17頁上段21行め≒②二七五頁7行め「‥‥、/僕には落に*9出來なかつた。」
・①17頁上段23行め~中段2行め≒②二七五頁8~9行め「‥‥。只淺/【①17頁上段】草のル|ンペン時代を資料にした淺草/裏譚*10が内容的にもよく、‥‥」
・①17頁中段9行め、下詰め「(一四、一二、九)」とあるが②二七五頁12行め、本文末に小さく「‥‥。(「江戸と東京」一五・一)」と添える。
 さて、異同は行末の句読点をぶら下げられないので省いたり、或いは齋藤氏の原稿が読みづらくて「パクパク」を「バリバリ」、「落々」を「落に」と読み誤ったり、人名を全く伏せていたのを姓を明かしたり敬称を補ったり、と云った按配なのだが、一箇所だけ執筆後のことを補ったところがあって、それが松尾禎三に関する記述である。
 いつ会ったかは齋藤氏が主宰していた雑誌「書物展望」書物展望社)の巻末頁、4段組の4段めの大半が囲みの奥付で、1段めから4段めの頭までは「‥‥便り」と題した、齋藤氏個人の日誌であり、編輯後記でもあり、書物展望社の近刊予定や既刊の訂正などについて述べたものとなっている。
・「書物展望」第百二十號/第十一卷第六號・昭和十六年 五 月廿八日印刷・昭和十六年 六 月 一 日發行・定價金六拾錢・86頁
 86頁1~4段め5行め「新富町便り」8項目、末尾に(少雨生)とある。「東京市京橋區新富町三ノ七」が書物展望社の所在地。3項め(1段め20行め~2段め10行め)、

◯西村君の「銅版畫志」は案の/如く好評を以て迎へられたこと/は、版元として誠に光榮とし/てゐる。それについては聊か勞/【1段め】を慰めたいとの西村氏の勸めで/池長美術館第二囘展見物をかね/五月十五日、數年振りで西下し/た。當夜神戶の菊水で小宴に列/し、大阪に出て西村君へ一泊し/て、久々に靑山容三氏を訪ねた/が不在で失望した。十七日は參/急で雨中の名古屋に入り、初對/面の松尾禎三氏を訪ね、書物談/に列車を失し十八日に歸つた。

とある。西村君の「銅版畫志」すなわち西村貞『日本銅版畫志』については聊か思い出があるので別の機会に述べたいと思う。それはともかく、松尾氏とは昭和16年(1941)5月17日に初めて会って意気投合、10月にも朝鮮旅行の帰途、名古屋に立ち寄り松尾氏の案内で名古屋城等を拝観したことは、次の号に見える。
・「書物展望」第百二十五號/第十一卷第十一號・昭和十六年 十 月廿八日印刷・昭和十六年十一月 一 日發行・定價金六拾錢・78頁
 78頁1~4段め6行め「茅ケ崎便り」7項目、こちらは末尾に(執筆者)を添えていないが齋藤氏執筆に違いない。なお「茅ケ崎」は齋藤氏の住所「神奈川縣茅ケ崎町東海岸」である。3~6項め、朝鮮旅行について述べ、最後の7項めは3段め以下、その帰途について述べている。

◯十八日は船車とも立ン坊を覺/悟で京城に別れたが、身輕な旅/裝は幸ひ、急行も船室の寢臺も/とれて、下ノ關から再び急行、/防空訓練中の廣島に增田敏郞君/を訪ね、翌日正午から廣島文化/會の人々の座談會に臨んで、一/時半の上りで三度急行、闇の大/阪入りが案ぜられて神戶に一泊/した。明くれば二十一日、久し/振りに大阪の靑山容三氏を訪ね/落付いた話も交さず又の日を約/して四度の急行に、夕方名古屋/驛に着いたら、松尾禎三君が待/つてゐたので氏の文庫を訪ねた/が、少し氣がゆるんだか醉ふて/了つたまゝ一泊、翌二十二日朝/食を濟せてから松尾君の案内で/名古屋城と舊離宮を拜觀した。/今まで度々名古屋を訪ねても名/城の見物は初めてゞあるが、五/層樓を一氣に昇降しては流石に/くたびれた。一時十七分の上り/で五度目の急行に大船まで運ば/【3段め】れて、家へ引き返したのが夜七/時、小雨の休んだ所。顧れば十/二日間一度も雨に逢はず、最も/惠まれた旅であり、各地の同好/諸君に多大の御迷惑をかけた。/爰に厚く感謝する次第。


 松尾禎三の歿年月日は、次の本によって判明する。
・大野一英『名古屋の駅の物語(下)』昭和55年6月2日 発行・定価 一〇〇〇円・中日新聞本社・296頁

 295~296頁「あとがき」の最後の段落(296頁6~13行め)の協力者・関係機関を挙げての謝辞に、9行め「‥‥、松尾禎三(本年二月一日死去)の各氏と‥‥」とある。
 大野一英(1930~2006)は名古屋タイムズの記者で、豊橋市円成寺住職だった。
 大野氏は晩年の松尾氏を次の本に取り上げている。
・大野一英『大須物語』昭和54年3月10日 発行・定価 一、六〇〇円・中日新聞本社・414頁 随所に5字半下げでやや小さい字で、顔写真入りの人物紹介を差し挟んでいるが、85頁5行め~86頁「郷土史研究家 松尾禎三さん」として、談話を織り交ぜながら鮮やかに松尾氏の人物像、大須との関わりを描き出している。これは末尾(414頁5行め)に下詰めで「初出・名古屋タイムズ(1978・1・5~12・26)」とあるから昭和53年(1978)の取材、晩年まで松尾氏が名古屋郷土史界に重んぜられる存在であったことが察せられる。
 なお当時、日本石油株式会社名古屋支店長に全く同名の人がいるので少々紛らわしい。(以下続稿)

*1:②「靑山××君」。

*2:②句点「。」あり。

*3:②「後には面|識は出來たが、當時は文通だけでゐた」。

*4:②読点「、」あり。

*5:②句点「。」あり。

*6:②「君」あり。

*7:②「パク〳〵」。

*8:②「きり」。

*9:②「落々」。

*10:②は一重の鉤括弧。