瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

全国歴史散歩シリーズ13『東京都の歴史散歩』(09)

 久し振りに①文庫版上下2冊、②新書判上中下3冊、③B6変型判上中下3冊を揃えて見ました。
 と云うのは、大和田刑場と云う、現在の八王子市に「あった」ことは確かだと思うのですが、実態がまるでよく分からない刑場が、この20年程の間に「江戸三大刑場の一つ」などと云う枕詞とともにネット口の端に上るようになって、私なぞは2016年3月28日付「だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(4)」に取り上げた『多摩の怪談ぞくぞくガイド』改訂版を読むまでその存在すら知らなかったのですが、それがいつの間にか「江戸三大刑場」などと云うことになって面喰らっておるのです。もちろん『多摩の怪談ぞくぞくガイド』改訂版には「三大刑場」だったなぞと云ったことは書いてありません。しかしネット上では有名な小塚原刑場跡や鈴ヶ森刑場跡を取り上げるに当たって、例えば小塚原刑場跡ですと、わざわざ「江戸三大刑場の一つ(後の二つは鈴ヶ森刑場跡と大和田刑場跡)」と、聞きもしないのに、Twitter(現X)の場合字数制限もあるのに、ご丁寧に註釈を入れている人が少なくないのです。所謂テンプレートの使い回しかも知れませんが、しかしご丁寧にも「大和田刑場跡(板橋刑場跡とされることがあるが誤り)」みたいに、近藤勇の処刑で大和田刑場跡などよりは知られている板橋刑場をわざわざ否定して、大和田刑場を持ち上げるような人もあるのです。
 ネット以前、Twitter 以前がどうだったか、それは2000年以前に刊行された国立国会図書館収蔵資料の多くを収めて全文検索出来るようにした「国立国会図書館デジタルコレクション」が1つの手懸りになると思うのですが「江戸三大刑場」などと云う呼称は稀で、「二大刑場」なら多くはありませんが1950年代以降コンスタントにヒットします。もちろん小塚原と鈴ヶ森です。やはり「三大刑場」などと云う呼ばれ方はしていなかったとしか思われないのです。
 しかしこれも3つ取り上げたものがあっても「三大刑場」と云う呼称でなければヒットしないので、なかなか検索だけで「分かった」と結論する訳には行きません。しかし「江戸三大刑場」などと云う呼称がごく近年になってから行われるようになったものであろうことだけは、これだけでも分かりそうなものです。
 しかし、世はしたり顔に「三大刑場」を云々するネット投稿に溢れております。
 それらを一々やっつけて回る訳にも行きません。正解を訴え続ければ良貨が悪貨を駆逐する、みたいに事態が正されるなんてことはまづなくて、当ブログでも色々と謬説が通説化している事柄について、根拠を示してそれが誤りであることを指摘しておるのですが、ブログの閲覧者はいよいよ減って限界集落並に過疎化するばかり、かくてはあらじと Twitter を始めて見たのですが、あれはフォロワーになるとかしないと閲覧してもらえない。しかし、たまに他人様の Tweet に私の Tweet が取り上げられると、インプレッションが異様に上昇するのですが、それでリンクを貼っている当ブログの記事を見てくれる人がいるかと云うと、全くいないのです。他人様の Tweet に私のブログ記事のリンクが貼ってあっても、同じです。要するに、その人のフォロワーが TL に流れて来た私の Tweet を「見た」と云うだけで、それ以上のことには全くなっていない。それでどうもやる気をなくして、Twitter の方は放置気味になっております。
 いえ、私が以前当ブログで取り上げたことについて、その後何か新しい情報が上がっていないかと Twitter でキーワード検索してみることがたまにあるのですが、そこで驚かされるのは、私がブログ記事で詳細に論じて解決し、Twitter にもその要点を報告した事柄について、全く知らずに頓珍漢な Tweet をしている人が少なくないことです。それで、あぁ、世間の人は、自分の思い付きを確かめずに本当に垂れ流しているだけなのだ、同じようなことを思い付いて、検証した人がいるかも知れない、などと云うことには思い至らないらしい、と云うことに気付かされて、誠に暗澹たる気分にさせられたことでした。
 それこそ、貴方の疑問はもうとっくにこちらのブログで解決されていますから、と言ってやりたい気分になるのですけれども、そんな程度の人に絡むのもいよいよ馬鹿げているように思えて、やはり何もせぬままなのです。
 しかしまぁ、それは別に今に始まったことではなく、先行研究を確認せずに既に唱えられている説を新説のつもりで得々と述べたり、既に紹介されている重要資料を見落としたまま中途半端な(発表しない方がマシな)論文を書いているような人が、学者の世界にも少なからずいたのを10年余に及ぶ院生時代に見て来ましたので、程度の違いこそあれ、人間のすることなど、もうそんなものなのかも知れません。
 だから自民党や維新みたいな連中に簡単に騙されてしまう。全くちょろいもんでしょう。
 それはともかく、ですから今回『東京都の歴史散歩』を再び手にしようと思ったのは「大和田刑場跡」の記事の続きなのですけれども、「大和田刑場跡」と云う題にしなかったのは何故かと云うと、『東京都の歴史散歩』には大和田刑場のことなど全く出て来ないからです。まぁ当然でしょう。跡地も定かでない。一応岳南製紙時代に慰霊碑みたいなものは建てられましたが一企業の敷地内で散歩するような場所ではありませんでしたし、工場が閉鎖されてホテルやマンションが建設されるに当たりこの慰霊碑も所在不明になって、今は何の痕跡もありません。いえ、実のところ、慰霊碑が建っていた場所が本当に刑場跡なのかどうかも、確証は少しも示されておらぬのです。
 そうすると別の箇所に「三大刑場」なる呼称が出ているかどうかと云うことになりますが、これは「三大処刑場」と云う呼称が見えるのです。但し②新書判のみです。
 と云う訳で次回以降、小塚原刑場跡・鈴ヶ森刑場跡の記述、そして「三大処刑場」が何処にどのような形で見えるのかを確認して行くこととしましょう。(以下続稿)