昨日の続きで、今回から名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』139~210頁「[4] 珍談奇談骨董談義*1」22節、その10節め、166頁10行め~171頁2行め「沖田総司君の需めに応じ*2」の内容を細かく見て行くことにする。
但し私はどうしても細々したところが気になるので、瑣事に拘泥り過ぎて本文を脇に置いていない人には要領を得ぬところがあるかも知れない。手っ取り早くは東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」の、2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」の要を得た紹介を参照されたい。
まづ冒頭部を抜いて置こう。166頁11行め~167頁1行め、
もう、五十年ほども昔のことになる。大牟田市の松屋デパートで、捕物展*3を開いた会場で、/連れの子供に、展示してある古文書をすらすら読んで聞かせている婦人がいた。
大牟田保健所の医師で、森満喜子さん。新撰組の沖田総司が好きで好きで、沖田に関する/エッセイや小説を、すでに二冊、出している人であった。
いろいろ話しているうちに、沖田総司のものらしい短刀を見てもらいたい……ということ/になり、次の日、この短刀を持参された。【166】
秋山庄太郎氏から、司馬遼太郎氏に、そして、森さんの手許に……というこの短刀。
のっけから少々おかしい。本書は平成6年(1994)4月刊、211頁「あとがき」にも、13行め「平成六年春日」付。
そこから「五十年」前とすると昭和19年(1944)になってしまう。その前後としても、なかなかデパートで展示などと云った時代ではなかろう。
私は新選組には、倒幕派よりは好意を持っているが、しかしやはり斬り合ったり粛清したりと云ったところがどうも嫌なので、大して興味を持てない。だから森満喜子(1924.5.18~2000.10)と云う沖田総司一筋の作家がいたことも知らなかった。しかし森氏の年齢からしても「五十年」前では有り得ない。
Wikipedia「森満喜子」項の典拠になっている「大牟田市立図書館」HPの「郷土ゆかりの作家 > 森 満喜子」には「経歴・プロフィール」として、以下のように紹介している。
昭和17年、大阪女子医専(現・関西医大)2年の時、大映映画「維新の曲」を見て、 南条新太郎扮する沖田総司に魅せられる。 新撰組研究家として有名な子母沢寛氏や司馬遼太郎氏などに何度も手紙を書き、 司馬氏の作品の中に森満喜子の名前が登場したこともある。 昭和22年秋、父の仕事の関係で大牟田に居を移し、昭和23~51年まで大牟田保健所勤務。 その後、葛飾赤十字血液センターに勤務。 2000年10月死去。
子母澤寛(1892.2.1~1968.7.19)は戦前から新選組の本を何冊も出しているが、司馬遼太郎(1923.8.7~1996.2.12)は昭和30年(1955)頃から作品を発表し始め、昭和35年(1960)に第42回直木賞を受賞、昭和36年(1961)産経新聞社を退社して専業作家となっており、その新選組を扱った連作『新選組血風録』は昭和37年(1962)5月号から12月号に「小説中央公論」に連載、昭和39年9月に中央公論社から刊行、長篇『燃えよ剣』は昭和37年(1962)11月19日号から昭和39年(1964)3月9日号に「週刊文春」に連載、連載終了直後に文藝春秋新社から刊行している*4。
とにかく、森氏がこの短刀を入手したのは、どんなに早く見積っても昭和37年(1962)、常識的に考えれば昭和40年代のこととしか思われないのである。或いは「三十年」と書いたのが悪筆のため「五十年」と誤読されたのを、編集者も校正者も気付かず著者も見逃してしまったのかも知れない。
大牟田松屋での捕物展の時期が分かれば確定出来るのだが、松屋は平成16年(2004)7月2日に突如廃業閉店して、今や跡形もない。
ただ、名和氏が「捕物展」を始めた時期、そして名和氏が初めて会ったときに森氏が「沖田に関するエッセイや小説を、すでに二冊、出してい」た、と云うのが正しいとすると、「三十年」は「二十年」とした方が良さそうだ。「三」を「五」と読み誤るよりも無さそうな誤読だけれども。(以下続稿)