瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(4)

 昨日の記事は、名和弓雄が森満喜子と村上孝介を引き合わせた(のだろう)と云う筋まで引いて置くつもりだったのである。
 ところが書き始めて、改めて名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』を読み返し、その後仕入れた知識とも照らし合せて考えて見るに、どうもそうではないらしいように思えて来たのである。
 11月24日付「大和田刑場跡(25)」に取り上げた、森氏に浮州の短刀を見せられた名和氏が帰京して参考書に当たってみてもよく分からず、武州下原刀らしいとの印象から、斯道の第一人者である村上氏に電話で問合せるところ、ズウズウ弁を聞き直すところなどを煩く思って要点だけを抜いたのだが、やはりみっちりと抜いて置けば良かったと反省している。
 そこで改めて『続 間違いだらけの時代劇』168頁6行め~169頁5行め、電話での会話部分を全て抜いて置くことにする。

「その短刀のことは、わたすも聞いております。九州福岡の、お医者さんから話を聞きまし/た。ふすうというのは、下原の刀工で、濤江介、まさつか……という人の偽銘です。まさつ/かはですね、近藤勇君のためにとか、土方歳三君のためにとか、銘を刻み浮州と銘を入れて/います」
「しかし、なかなか上手な作品ですよ」
「上手ですね。しかし、偽物です。明治になってからも、そう刻んだらしい」
「まさつか……は、どう書きますか」
「正しいという字に、遠近の近。まさつかです」
「分かりました。銘鑑に載っていますか」
「載っています。この人はねえ、多摩川原に引き出されて、首を斬られました」
 あまり突飛な話が、突然とび出してきたので、驚いた筆者は、
「え、首を斬られたのですか? 斬首刑ですか? 一体どうして、そんな……」【168】
「偽物つくりが原因だと思います」
「そうですか……。いや、よく分かりました。持ち主に、その話を伝えましょう」
「その短刀見たいですね。何とかして見られないですか」
「森さんが上京されるとき、持ってきてもらいましょう」
「では、お願いします」


 そして遠からずして上京することを伝えて来た森氏を、村上氏に引合せ、下原鍛冶の知識を得た森氏は早速「濤江介正近」に活かしたのではなかろうか、と思ったのである。
 従って、村上氏が既に「話を聞」いたと云う「九州福岡の、お医者さん」は、森氏とは別の「浮州」の短刀を持っている人なのだろうと思ったのである。
 しかし、村上氏は「その短刀のことは、私も聞いております」と切り出している。そうすると、名和氏に電話越しに説明された短刀のことをもう知っていて「その短刀のことは」と切り出したのだと解釈した方が、良さそうに思われるのである。
 そうすると「九州福岡の、お医者さん」とは、もちろん森氏本人と云うことになる。
 森氏は今、沖田総司への思いに溢れた小説を書いたことで新選組ファンに記憶されるのみだか、当時はまだ著述家としては駆出しで、司馬遼太郎新選組血風録』所収「沖田総司の恋」の「四」節めに、

(筆者はそこを訪ねたことはないが、沖田総司の研究家で大牟田市諏訪町在住の医師森満喜子氏が、沖田家の菩提所である麻布の専称寺墓地で、総司の墓碑を見られた。碑名は沖田宗次郎となっているという。)

と言及されているように、そもそもは福岡県大牟田市の保健所の医師だったのだから、まさに「九州福岡の、お医者さん」なのである。
 そうすると名和氏は、森氏と村上氏がまだ対面はしていないながら既に連絡を取り合っていたことを知らずに、このように書いてしまったと云うことになりそうだ。電話越しだったこともあり最初に「森満喜子さん」=「九州福岡の、お医者さん」が嚙み合わなかったため(名和氏の記憶に誤りがないとすれば)そこが一致しない会話になってしまったようだ。
 実際のところがどうだったかは、森氏か村上氏が、対面して浮州の短刀について意見交換したときのことを書いていてくれていると有難いのだが『続 間違いだらけの時代劇』の「沖田総司君の需めに応じ」と違って、そのような文献の存在はネット上の話題にはなっていない。(以下続稿)