瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(17)

 何度も言及しているが、東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」の、2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」は、本作の題を「濤江介正近」と誤るところが、少なからぬブログや Twitter(現 X)に踏襲されているところ(!)から却って察せられるように、要領良く纏まっていて、当ブログのように細かいところに入れ込み過ぎず、判り易く穏当な見解を示していて、誠に優れた記事だと思うのだけれども、1点気になるところがある。最後に、御礼代わりにそこを突っ込んで置くことにしたい。
 それは名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』の「沖田総司君の需めに応じ」の要旨を紹介した、直後にあるコメントである。
 前後も含め引用して置こう。

他の研究家にも問い合わせてみたが、これ以上の詳細は掴めなかった。
濤江之介が本当に沖田からの依頼で作刀したとすれば、偽銘を切ったのはなぜか。また、明治期に入れば新選組に関連するものなど世間を憚るばかりで、作っても利益になるとは思えない――
と名和は疑問を呈しつつ、「沖田をおもしろく書ける作家なら、この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」と結ぶ。
 
森満喜子は、これを受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう。
収録書『沖田総司抄』のあとがきに、名和弓雄と村上孝介への謝辞があることからも間違いない。
 
こうした経緯を知って、下原刀や実在の濤江之介のことが気になり、調べてみた。


 東屋氏は「この濤江之介正近を書いてみてはいかがだろう」との名和氏の提案「を受けて短編小説「濤江之介正近」を創作したのだろう」と云う。しかし、普通に考えて、平成6年(1994年)刊『続 間違いだらけの時代劇』の提案を、昭和48年(1973)刊『沖田総司抄』に活かせるはずがないから、当時、名和氏からこのような提案があって、それに応えて森氏が書いたのが本作なのであろう、と云うつもりで、こう云う書き方をしたのであろう。
 しかし、すんなりと受け容れがたいものがある。――『続 間違いだらけの時代劇』の当該箇所を、村上孝介との電話を終えた後の部分を抜いて置こう。169頁9行め~171頁1行め、

 筆者は濤江介正近なる刀工に、たいへん興味を覚えた。
 濤江介の作った偽物が、なんらかの事件を起こし、罪科に問われて斬首刑執行となったの/であろうが、たいへん珍しいケースである……と言わねばならぬ。
 あちこちの下原刀の研究者に問い合わせてみても、それ以上のことは、目下のところ、不/明であるが、考えれば考えるほど、疑問が湧いてくる。
 濤江介は、本当に、近藤や土方や沖田に依頼されて鍛刀したのではないだろうか。
 では、何ゆえに、信濃国浮州などという架空の人物名を刻み、自分の名を刻まなかったの/であろうか。
 濤江介は、日野下原の刀工として、郷土の生んだ有名人、近藤、土方などに憧れ、依頼も/【169】されないのに、鍛刀して贈った……と仮定しても、自分の名を刻まないのはおかしい。
 現代は、新撰組ばやりで、異常な人気が、土方や、沖田に集中しているが、当時の彼らに、/それほどネームバリューがあったとも考えられない。
 明治になってからは、人気どころか、逆賊扱いされていたはずであって、彼らの名前を刻/んだ刀などむしろ嫌われて、売れなかったに違いない。
 廃刀令以後、刀工は無用の長物……生活にも窮したであろう濤江介が、古名刀の偽作や、/当時の政府高官などの名を盗用した……というのなら、分からぬでもないが、沖田総司のた/めに……では、どう考えても理解できないのである。
 このように、疑問は後から後から。雲のように湧いてきて、留まる所を知らない。
 新撰組の青年剣士、女性のアイドル沖田総司のことは、随分書かれたものが多く、それな/りに読んでいておもしろいが、沖田を、おもしろく書ける作家ならこの濤江介正近を書いて/みてはいかがであろう。
 沖田には、生命の危機感からくる悲壮さはあっても、人生の苦悩や内面の索寞はなかった/ようである。
 濤江介正近なる、かたわらなる人には、謎と影と、人生の苦悩が付きまとっていたように、/漠然とではあるが、何となく感じられるのである。
 濤江介正近……彼は多摩川原の首の座、土壇場に坐ったとき、一体、何を考えていたので/【170】あろうか。私の空想と創作意欲は、八王子市小比企の住居と、多摩の川原を、とめどなくさ/まようのである。


 確かに本作は、名和氏の示唆に応えて、「濤江介の作った偽物が、なんらかの事件を起こし」と云った辺りを、沖田総司と絡めて「土壇場に坐ったとき、一体、何を考えていたのであろうか」と云うところまで、想像を膨らませて書き上げて見せたかのような印象を受ける。「信濃国浮州などという架空の人物名を刻み、自分の名を刻まなかった」理由も、その「なんらかの事件」に絡めて説明している。尤も、二十代から日野や八王子在にいたことにして、そこで「事件を起こし」て江戸や京まで近藤勇沖田総司を頼って放浪していたはずなのに、最終的に八王子在に戻って来て小比企に住み着いて偽刀作りに励む、と云うのが何とも謎なのだけれども。
 しかし、書き振りからして名和氏も若干飲み込めていないような印象を受ける。大体は分かった気分にはなる。その原因は、名和氏の情報源である村上氏の理解に実は揺れがあって、それが十分に擦合わされないまま、電話で聞かされたからであるように思われるのである。
 4年前の昭和44年(1969)に纏めた『刀工下原鍛冶』では、村上氏は「濤江介」銘の、近藤勇の名を刻んだ刀や鉄砲を「完全な偽銘」または「後代の偽銘」としていた。濤江介歿後に、何者かが近藤勇の名を刻んだと云う風に解釈しているように読める。
 ところが、12月12日付(04)に引いた『続 間違いだらけの時代劇』にある、昭和48年(1973)の名和氏との電話では、濤江介本人が「近藤勇君のためにとか、土方歳三君のためにとか、銘を刻み浮州と銘を入れています」と云うことになっている。
 この間に、酒井濤江介正近の、新選組幹部の名を刻んだ刀や鉄砲について、意見を変えたらしいのだけれども、――電話と云うこともあって十分意を尽くせず、それが名和氏の理解、と云うか疑問に繋がっているように思われるのである。
 もちろん、本人が書いたものではないから『続 間違いだらけの時代劇』は村上氏の意図を正確に伝えていないかも知れない。
 しかし、本作の濤江介も、名和氏に見せた「浮洲」銘の「応沖田総司君需」と刻んだ刀しか、新選組に因んだ刀は作っていない。上記「濤江介」銘の近藤勇の名を刻んだ刀や鉄砲は『刀工下原鍛冶』に従って排除したらしい。その意味で本作は、昭和48年時点での村上氏の見解を忠実になぞっているのではないか、と思われるのである。
 すなわち、濤江介の新選組関連の偽刀としては、『刀工下原鍛冶』で問題にしていた本人が刻んだのではない偽銘と、ここで森氏の持っている短刀により急に明らか(?)になったらしい、濤江介本人が「浮州」と云う偽名で沖田総司の名を刻んだ、濤江介の作品と云う意味では真作と云うことになるものとがあって、本作では前者を排除し後者のみに絞ったものの「浮州」銘の刀が他に全く紹介されていないので、どうも微妙な出来になっている。本作発表後も全く出現していない(森氏の短刀の所在も分からない)ので、いよいよ、この「浮州」の説明が正しいのかどうか、不安にさせられるのである。
 いや何とも、ややこしい話で、私も色々考えているうちに頭がこんがらがってくる。既に述べたことでもあるので今回はこの辺りで切り上げて、結論に進もう。
 どうも、私が気になるのは、名和氏は本作のことを知っていたはずなのに、敢えて無視しているように見えるところである。
 名和氏は「沖田総司のことは、随分書かれたものが多く、それなりに読んでいておもしろいが、沖田を、おもしろく書ける作家ならこの濤江介正近を書いてみてはいかがであろう。」と述べる。しかし既に森氏が本作を、恐らく名和氏に会ったその年のうちに書き上げているはずなのである。
 かつ、東屋氏も指摘する通り、『沖田総司抄』の「あとがき」には、本作に関して名和氏に対する謝辞が述べてある。当然、名和氏にも献本しているはずである。
 それなのに「書いてみてはいかがであろう」とは、これまで書いた人がいないかのようである。もし本作を知っていて敢えてこのように書いたのであれば、森氏の描く濤江介に、名和氏の感じた「謎と影と、人生の苦悩が付きまとっていたよう」な感じがしないこと、さらには作品そのものの出来にも不満を覚えていたことになりそうである。
 もちろんそんな理由ではなく、単純に『続 間違いだらけの時代劇』を書いたときに『沖田総司抄』を探し出せずに、本作の存在を忘れたままになって、結局資料不足で森氏は濤江介を小説に使わなかったのだろう、と思い込んでこんな風に書いてしまった可能性も考えられるだろう。――ただ、名和氏は『間違いだらけの時代劇』で、考証の甘い時代劇を幾つも取り上げて細かく突っ込んでいるのだが、批判する場合、作者や俳優の名を敢えて挙げないようにしている(今は Wikipedia 等が充実して来たから、明示してなくても立ち所に判ってしまうのだけれども)。そうすると「浮州」銘の短刀について書く場合、持ち主として森氏の名前を挙げざるを得ないので、その森氏の作品に不満がなければ、その年のうちに刊行した短篇小説集『沖田総司抄』に収録した「濤江介正近」に想像を交えながら見事に描き上げている、と書いてしまえば良かったはずなのだが、色々と註文を出したくなるような出来だった。そこは批判して置きたいけれども、必要があって名前を出した以上、名指しの批判になってしまう。そこで、全く触れずに他の新選組ファンの物書きに、名和氏の考える設定を述べるとともに「書いてみてはいかがであろう」と呼びかけたのでは、‥‥いや、これは少々考え過ぎだろうか。(以下続稿)
追記】森氏は濤江介の斬首を明治6年(1873)2月7日の太政官布告第37号、所謂「仇討禁止令」以後のこととしている。名和氏は「廃刀令」以後としているが、明治9年(1876)3月26日の太政官布告第38号、所謂「廃刀令(帯刀禁止令)」では遅すぎるようである。しかしいづれ濤江介の歿年月日が明らかにされていなかったことに基づく想像に過ぎないのだから、余り突っ込んで見ても仕方がない。