瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(08)

 森氏が名和弓雄に会ったのが恐らく昭和48年(1973)、余り時間を置かずに上京の際に村上孝介に会って「浮州」銘の短刀を見せ、その礼として昭和44年(1969)刊『刀工下原鍛冶』を贈られ、それを参考に12月刊行『沖田総司抄』に収録すべく本作を書き上げた、と云うのが想定される最も自然な流れだと思うのだけれども、正確なところは当人の記録でも見ない限り分からない。
 森氏は『刀工下原鍛冶』を熟読したかどうか、――保健所勤務の医師がどれくらい忙しかったのか、私には見当も付かないのだが、当時新選組への関心が高まっていたらしく、森氏は昭和47年(1972)の1年間に『新選組覚え書』と『新選組隊士列伝』に共著者として参加し、単著『沖田総司哀歌』も刊行している。
新人物往来社出版部 編『新選組隊士列伝』昭和四十七年八月二十五日 第一刷発行・定 価 八五〇円・新人物往来社・243頁・四六判上製本

 こうした執筆活動で忙しくしていた上、これらの本の奥付には住所が記載されていて、『定本 沖田総司――おもかげ抄』を見るに、読者から誤りの指摘や疑問点の質問などの手紙が少なからず来ていたようだから、『刀工下原鍛冶』のような本を、濤江介正近や武蔵太郎安貞に関係しないようなところまで、なかなか目を通してはいられなかったのではないかと思う。
 院生の頃の私は、何処に関連する記述があるか分からないと思って、差当り必要でない論文まで目を通すようにしていた。索引があっても全てを拾っていると限らないので、一応最初から最後まで目を通したのである。しかし今はなかなかそんなことをしてもいられない。いや、どうしてそんなことが出来たのだろうと不思議な気分にさせられるのである。
 それはともかく、網羅的な参考書が『刀工下原鍛冶』くらいしかなかった時期であれば、これをすり切れるくらい見れば良いのだけれども、今は『武州下原刀図譜』など村上氏歿後の成果を盛り込んだ本も刊行されていて、『刀工下原鍛冶』だけで済ます訳には行かない。そこまで手間を掛けて下原鍛冶の知識を仕入れても、これ以上発展させる予定がないので、一応『武州下原刀図譜』も借りて置いたけれども、ざっと目を通すだけになると思う。
 『刀工下原鍛冶』も『武州下原刀図譜』も索引がない。ただ前者は国立国会図書館デジタルコレクションに入っているから検索することが出来る。
 そうすると「XI. 下 原 刀 工」の「66. 正近,正親」の他にも、『刀工下原鍛冶』には少ないながらも濤江介正近に関連する箇所があることが分かった。
 昨日触れた209頁14行め~234頁20行め「29. 武 蔵 太 郎 安 国」の229頁14~16行め、

‥‥。新々刀期の武蔵太郎安国をそっくり偽物したものは,並江介正近であった/といわれており,確かにそれらしいものは存在するが,しかしそれ等は何れも初代を狙った偽物で,/新々刀期のもの,つまり正近と同時代の安国を狙ったと思われるものは見られなかった。

と、武蔵太郎安貞の師匠の家系である武蔵太郎安国の偽物を濤江介正近が作ったと云われているが、村上氏が見た武蔵太郎安国の偽物には濤江介正近と同じ新々刀期のものはなかった旨、断ってあった。もちろん森氏は武蔵太郎安貞に当たる「武蔵太郎安定」を、初め「武蔵太郎」として登場させていたくらいだから、作中の濤江介に武蔵太郎安国の偽物は作らせていない。
 もう1箇所、139頁6行め~161頁27行め「3. 照   重」に、150頁24行め~151頁5行め、

 新刀の照重が新々刀になると,ぐっと作品が減って,ほとんど実作を見ることのできない状態なの/は,下原鍛冶全体の傾向であるが,照重は幕末になって鉄砲を製作したという説があったので,その/裏づけになるものを求めたところ,鉄砲の銃身2筒と木型2組があり,鉄砲を製作したことは充分に/証明された。しかしそれが何代目の照重からなのか,また誰の命令または注文によったものかなどに/ついては,全く何の記録も発見できなかった。しかし幕末の照重は刀鍛冶というよりも,鉄砲の製作/が主であったらしいことも,いろいろの遺品がこれを証明している。
 この幕末の刀工が鉄砲を製作したことは,全国の御抱え刀鍛治にはよくあったことで,下原照重だ/けの特異例でないことは,常識であるが,この場合,刀鍛冶は決して銘を入れなかったことも共通で/あった。多分,刀鍛治は御時勢で抱え主の命令を受けて,已むを得ず鉄砲を製作しても,刀鍛冶とい/う名誉の手前,銘を切ることを避けたのではなかろうか。銃砲刀剣の登録の際に,三多摩地方は特に/火縄銃が非常に多かったので,この中に下原鍛冶の銘の入ったものがないかと注意したが,そのほと/【150】んどが無銘で,下原鍛冶の在銘のものは1丁もなかった。/中に火縄銃で,芹沢鴨の注文打で,近藤勇の持ったという/銘文の入った浪江之介正近の在銘のものはあったが,銘は/正真と認め難く,在銘下原鍛冶の鉄砲は全く発見できなか/ったのである。

とある。村上氏は記憶に頼って書いているらしく「芹沢鴨の注文打」と誤っているが、これは12月13日付(05)及び11月27日付「大和田刑場跡(28)」に触れた、現在は町田市の島津兼治の所蔵する火縄銃であろう。
 この火縄銃のことは19~50頁11行め「IV. 下原鍛冶と德川家」19頁2行め~24頁15行め「A. 御用鍛冶について」に、23頁27行め~24頁6行め、

 江戸末期,すなわち新々刀期になると,全国の諸家御抱え刀工のほとんどが鉄砲の製造をやらされ/た形跡があるので,下原鍛冶にもそうした事実があったのではないかと調べて見ると,山本康臣家の/記録の中には,大砲の設計図のようなものが出てきたし,山本但馬家からは,鉄砲の木型や,銃身を発/見することができた [Pl.15]。おそらく幕末の下原鍛冶も鉄砲の製造をやらされていたことは否定す/べくもなく,明白な事実であった。しかしこれが徳川家の命令であったのか,直接の領主であった田/安家の命令であったのか,またはその他の注文によったものかを解く資料は何も発見できなかった。
 三多摩地方にはどういうわけか登録の実情を見ても,火縄銃を所蔵している人が非常に多い。これ/は猪狩に使用したためともいわれているが,江戸時代の鉄砲所持の取締りを考えると,単なる猪狩の/【23】要具とのみは考えられないものがあるが,これ等の火縄銃の中に下原鍛冶の銘の入ったものをよくよ/く探して見たが,一も発見できなかった。当時下原鍛冶は鉄砲を造った場合は全部無銘で出したもの/か,記録にもない。唯一つ近藤勇関係のことを銘文にしたものが八王子市内にあったが,これは後代/の偽銘であった。おそらく下原鍛冶は鉄砲に対しては銘を切らなかったのかも知れない。本来の鉄砲/鍛冶ではないし,刀鍛冶として鉄砲に銘を入れることは故意に避けたのではなかろうかとも考えられ/るのである。

とある。なお [Pl.15] は巻末(X頁)図版の〔Pl.IV〕頁下左に「15. 山本但馬家蔵 木型と銃身」とのキャプションを添えた写真が掲出されている。
 これはなかなか面白い材料になると思うのだけれども、森氏はこれらの記述に気付かず、村上氏に詳細を問合せることをしなかったようだ。よって森氏は『刀工下原鍛冶』を熟読していないと思うのである。いや、責めている訳ではない、私とて関係箇所しか見ていない。技術の進歩で参照箇所が増えただけなのである。(以下続稿)
12月21日追記】その後、再読に際して12月20日付(12)に述べたように、これら「面白い材料」を森氏が活用しなかった理由は気付かなかったからではなく、村上孝介の教示を尊重して、村上氏が「後代の偽銘」或いは「完全な偽銘」としている鉄砲や刀を採用しなかったからだろうと考えを改めた。