瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(5)

 なかなか先に進まないが、瑣事に拘泥わるのが当ブログの謳い文句なので、もうしばらく名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』の「沖田総司君の需めに応じ」の解釈(のやり直し)を続けよう。
 とにかく「浮州」銘の刀が出て来ないのである。偽物だとしても――近藤勇だの土方歳三だの沖田総司だのの名があって、彼らに依頼された訳ではなく酒井濤江介正近が勝手にそういう銘を刻んだだけだったとしても、彼らと同時代のものなのだから新選組がどのように捉えられていたのかを考える資料にはなるだろう。新選組のファンであれば、近藤勇沖田総司の名を刻んだ、幕末から明治初年の刀であれば、実際に彼らが依頼したかどうかはともかくとして、手にして見たいと思いそうなものである。
 しかしながら、この森満喜子が持っていた短刀以外に「浮州」銘の刀剣の存在は知られていない。
 そう思って、前回引いた名和氏との電話での村上孝介の発言を読み返して見るに、その殆どが酒井濤江介正近の説明なのである。「浮州」は最初に「濤江介正近と云う人の偽銘」と決め付けられているだけである。
 どうも、村上氏はこの後、上京した森氏に浮州の短刀を見せてもらうまで、「話」に聞いただけで「浮州」銘の刀剣を実見していなかったようだ。
 では、どうして「浮州」を「濤江介正近と云う人の偽銘」と推定したのかと云うと、――村上氏は武蔵下原鍛冶の研究の過程で「近藤勇君のためにとか、土方歳三君のためにとか、銘を刻」んだ偽物を作っていた濤江介正近のことを知った。他にそんなことをした人はいないとも思っていたところに、「沖田総司君の需めに応じ」との銘を刻んだ「浮州」なる刀工の「話を聞」いた。そのとき濤江介正近の偽銘ではないかとの考えが閃いたが、確証が持てなかったのでこの推測は持ち出さなかった。
 ところが、同じ「浮州」の「沖田総司君の需めに応じ」との銘のある短刀のことを、今度は実見したと云う名和氏から「武州下原刀ではないか」と尋ねられるに及び、当初から抱いていたこの推測に、初めて確証が得られたように感じて、電話だったこともあって結論だけを手短に、断定調で答えてしまった、と云うことのように思われるのである。
 こんな風に断定してしまうものだろうか、と思う人もいるかも知れないが、私は新資料の発掘ではなく旧資料の再検討、すなわち先行研究を洗い直して博士論文を書いた経験から、材料の少ない事物についての判断はそんなものだろうと思っている。だから、裏付けとなるような文献を漁るのである。それが殆ど見当たらないとすれば、大抵の場合、少ない材料から若干恣意的な判断を下しているものなのである。もちろんその見当が当たっていることも多いだろう*1。しかし、根拠が明白でない以上、その旨を断って利用すべき見識で、この場合、村上孝介の名を断らずに「浮州=酒井濤江介正近」説を一人歩きさせてしまうのは、問題があると思うのである。
 さて、この後、森氏が上京した際に村上氏に浮州の短刀を見せたと思うのだけれども、そのとき村上氏がどのような反応を示したか、しかし見せた上で森氏が「濤江介正近」を書いたのだとしたら、やはり「浮州」は濤江介正近の偽銘、との結論は揺らがなかったのであろう。
 ただ、結局のところ「浮州」銘は、村上氏の云う「九州福岡の、お医者さん」が森氏のことだとしたら沖田総司の名を刻んだ短刀一振のみで、近藤勇土方歳三などの名を刻んだ刀剣の方は、実は「濤江介正近」銘のものしかなかったのではないか。
 尤も、村上氏が『刀工下原鍛冶』に正近の偽銘の実例として挙げたのは、11月24日付「大和田刑場跡(25)」に見たように「於小比企 正近作/文久二年二月日 依近藤勇好」と云う一振のみで、それから11月27日付「大和田刑場跡(28)」の後半に触れた、「前芹澤鴨用 任近藤勇氏望 酒井正近改造 於八王子 元治甲子正月」との銘のある火縄銃は、「MOTION GALLERYクラウドファンディング・プラットフォーム 」の増山麗奈「withコロナ時代の国際映画「歳三の刀」を応援して下さい!」vol. 1 2020-08-14「雑誌「秘伝」で歳三の刀の特集をしていただきました」にて、「月刊秘伝」2020年9月号に、島津兼治×汐海珠里の歴史試論対談「新選組の「銃」」に,銘の部分の写真入で取り上げられていることを知った。この雑誌は都下の公立図書館でも何館か購入しているところもあるが、3年以上前の号なので既に除籍されていて近場の図書館では閲覧出来ない。


 それはともかく、以上のように近藤勇については刀と火縄銃で「正近」銘の作は紹介されているのだが「土方歳三のために」の実例は紹介されていない。「浮州」の実例は近藤勇土方歳三ともに紹介がなく、森満喜子が所持していた沖田総司の名を刻んだ短刀が紹介されただけである。
 あるのなら、もう少し紹介してもらえないだろうか。しかし偽物という前提になるから、ちょっと出しにくいのかも知れないが。(以下続稿)

*1:外れていて、後学を大いに惑わしている「思い付き」レベルの断定も少なくない。――権威者がこれをすると、疑ってはいけないような空気が漂うから、いよいよ厄介である。