前回長々と引用した場面は「冬の半ば」から「二カ月程」後だから文久四年(1864)正月と云う勘定になる。そして「二」節の最後の行(81頁10行め)は、
沖田が濤江介の声を聞いたのはそれから四年の後である。
となっていて、最後の「三」節は慶応四年(1868)、14~15行め「鳥羽伏見で多くの戦死者を出し/た新選組は幕艦、富士山艦に便乗して一月十五日に江戸に帰って来た」沖田が、82頁3~4行め「伏見で/肩に鉄砲傷を受けた近藤と共に神田和泉橋の医学所で、松本良順の治療を受け」ている、そこに84頁15~17行め「しぶい大島つむぎの着物と羽織。以前に比べると大分肥って顔/色もつやつやと磨き立てているし、髪は大たぶさにゆったり結っている。どこから見ても大商/人と見える風体」の濤江介が訪ねて来る。83頁14行め「新選組が引上げて来たと聞いたらすぐ飛んで来たのだ」と言っており、どうも、正月二十日くらいには駆け付けているようである。19行め~85頁8行め、
「濤さんは今、どうしているのです。ずいぶん羽振りが良さそうだけれど」【84】
「八王子の小比企に住んでいる」*1
「八王子か。なつかしいなあ。で、仕事は」
「相変らず刀鍛治さ」
と言った時、眼にチラリと暗い陰が走ったが濤江介はすぐそれを消して、
「家を建ててな、弟子も住込みが五人いる」
「成功したんですね。ところで――その、あの人は、京の小萩さんは」
「はっはっ。無論、俺と一緒に元気に暮しているよ。関東の水が合うとみえる。あいつも太って/な、すっかり世話女房になっている」
12行め「小さいのが今三人」で「今年の夏には四人になるはず」と言うから小萩はその後毎年妊娠していることになる。
そこに近藤勇が現れて、自身の負傷について説明する。86頁6行め「一日毎に良くなってきている」と言う近藤に対し沖田は、8行め「なかなか薬も苦いの何のと言って飲まない」と聞き、沖田を見たときに、83頁8行め「この男、死ぬのではないか」と感じていた濤江介は、86頁11行め「今度来る時は人蔘を持って来てやろう」等と言うのだが、そこから彼が裕福になった理由が分ってしまう。15行め~87頁16行め、
「ずいぶん景気がいいのだな」
近藤があきれた声を出した。
「刀が良く売れるのですよ。こういう御時勢になったから」
「しかし」
近藤はやや固い顔になった。【86】
「槍や刀の戦いはもう旧式なんだよ。これからの戦いは大砲や鉄砲だ。新選組はああいう新兵器/に敗けたのだよ」
「その鉄砲ですがね。それも私、作っています」
濤江介は気負いこんで言った。
「主として短銃ですが、護身用にはこれが持ってこいです。短銃も今度持って来ます」
近藤も沖田も笑っていた。
「まさか偽刀はもう作ってないだろうね」
「はっはっ」
と、濤江介は大きな口をあけて笑った。
「要するに刀は切れればいいのではないですか。銘なんかどうだって。世間の評価が名工のもの/を尊ぶならば、それにならえばいい事だ」
「濤さん」
沖田の頰にさっと浮くような紅が射した。
「やっぱり作ってるのだね」
「多多益益弁ず、ですよ」
濤江介は顔をつるりとなでた。
本作を収録する『沖田総司抄』は2週間前の6日に借りて、2日ほどで読んでしまったのだが、そもそも新選組に詳しい訳ではないので、その後こうして記事を書くために確認しながら読んで行くと、知らぬ時期には読み飛ばしていたことが色々気になって来る。
さて、12月16日付(08)にて、私は森氏は村上孝介『刀工下原鍛冶』を熟読しなかったので、「芹沢鴨の注文打で,近藤勇の持ったという銘文の入った浪江之介正近の在銘のもの」と云う、まさに本作に活用すべき恰好の材料を見逃してしまったのではないか、との臆断を示してしまったのだが、今、ここまで読み直して、森氏はちゃんと(?)その辺りも踏まえていて、その上で使わなかったのだ、と云うことに思い至った。汗顔の至りである。
昨日考えたように、森氏は「村上孝介先生から言われた通りに」書いている。だから近藤勇の火縄銃も「後代の偽銘」との村上氏の判断に従って取り上げなかったのである。しかし『刀工下原鍛冶』には「全国の諸家御抱え刀工のほとんどが鉄砲の製造をやらされた」のと同様に「幕末の下原鍛冶も鉄砲の製造をやらされていた」とあるので、近藤勇の火縄銃は却下したが鉄砲は濤江介も「作っています」と云う風に反映させたのであろう。
『刀工下原鍛冶』には他に、11月12日付「大和田刑場跡(14)」に見た「於小比企 正近作/文久二年二月日 依近藤勇好」と云う一振が紹介されていた。これも恰好の材料で、本物として書いてしまっても良かったはずである。しかし村上氏が「完全な偽銘」と断じているので採用しなかったのであろう。
そうすると翻って(森氏が上京の際に村上氏に「浮洲」銘の短刀を見せたと云う想定で間違いがなければ)これら「近藤勇」の名を刻んだ「正近」銘の刀や鉄砲を「偽銘」と断じたのと違って、村上氏は「浮洲」銘の短刀は酒井濤江介正近の真作(!)と断定したことになる。
さて、本作の濤江介は「京に来てからはずっと浮洲という銘を使っていた」ことになっている。その理由は「余程露見するのがこわいのだろう」と近藤に推測させている通り「濤江介正近」と刻むことが出来なくなったためで、結局、次回確認することにするが、関東に戻って来た濤江介は、自分の名を刻むことが出来ないこともあって「偽刀作りに専念」することになったらしいのである。
濤江介正近の作品については改めて図録等に出ているものを一通り確認しようと思っているが、確かに、慶應や明治の年記のあるものは知られていないらしい。森氏はそのことを村上氏に知らされて、①「濤江介正近」→② 五郎正宗の偽刀→③「浮洲」→④ 諸名工の偽刀、と云う流れを設定したようだ。②をやってしまったことで①と刻めなくなった。そのため横井仙斎のところでは③と刻むようになり、‥‥と。
しかし、村上氏が「浮洲」の短刀を酒井濤江介正近の作と認めたとして、上洛して作ったと考えていたかどうか。上洛していないと思っていただろうが、しかし上洛して新選組と絡んでくれないことには、小説にはならない。だからそこは森氏が我を通したのであろう。(以下続稿)
*1:ルビ「こ び き 」。