瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(7)

 一念発起した濤江介は50頁18行め、その「翌日、突然、日野から消えて」19行め「武州八王子在恩方村字下原とその周辺*1」の「下原鍛冶と呼ばれる刀工の集落」に行き、51頁3行め「その刀鍛冶の最も大きな家の玄関に立」ち、入門を願う。しかし17行め「確かな添状の無い」ことを理由に、52頁2行め「この家の主らしい中年の男」6行め「武蔵太郎と名乗る刀鍛冶」に断られてしまう。
 気になるのはこのときの濤江介が51頁13行め「――いつまで待たせやがるのだ――」52頁16行め「――ふん、刀鍛治は下原だけじゃあるまいし、大きな面しやがって――」と思ったり、52頁1行め「しきたり? 何を言いやがる」と実際に口に出したり、二十歳の村鍛冶にしては恐ろしく厚かましく思い上がっていることで、入門して師と仰ごうと云う相手、兄弟子になるかも知れない相手に、この態度はないだろう。何の裏付けもないのにどうしてこんなに自信を持っているのか、全く解せない。或いは、礼儀を知らない、すなわち育ちの良くない、かなり問題のある人物と印象付けようと、わざとこのような場面を設けたのであろうか。
 実在の酒井濤江介正近には下原鍛冶の武蔵太郎に入門を乞うた事実はないはずなのであるが、これは高尾山薬王院に奉献した、武蔵太郎安貞との合作の太刀から思い付いたのだろう。しかし前回見た沖田総司にせよ今回の武蔵太郎にせよ、後で深く関わって来る人物とその前から何かしらの関係があったことに無理して設定しなくても良いだろうに、と、私などは思ってしまう。
 村上孝介『刀工下原鍛冶』の「XI. 下 原 刀 工」234頁21行め~238頁16行め「30. 安     貞」には、既に11月13日付「大和田刑場跡(15)」にて触れている*2。但し後述するように歴代について具体的な情報に乏しい。とにかく、武蔵太郎安貞について村上氏が余り明確な説明をしていないことを森氏は利用するような按配で、自らの想像により創造した「武蔵太郎」を、かなり便利に作中に使っているのである。
 それはともかく、ここまで資料に拠らずに後の展開の伏線として創作して置いて漸く史実に則って、52頁19行め「数日の後、濤江介は鹿沼*3の刀工、細川正義の門をたた」くことになる。53頁3行め「細川正義は五十過ぎと思われる小肥りした男であった。」とあるが、嘉永元年(1848)として初代の長男・二代細川正義(1786~1858)も「六十過ぎ」であった。
 そして54頁4行め「入門して八年目の春」に暇乞いをする。安政二年(1855)と云うことになる。師匠は濤江介を9~10行め「もうお前さんはどこに行/っても一人前の刀鍛治として立派に立ってゆける」と認めながら「だがな、ひとつだけ言っておく。刀は心だ。」云々と訓誡するのだが、それに対して16行め「――何を言いやがる、刀は切れさえすればよいではないか――」と思わせていて、幾ら修業を積んで腕を上げても性根は直っていないことを示すのだが、このとき、17行め「細川正義は彼に正近という名を与えた。」と云う訳で、52頁13行め「酒井濤江介」から、55頁1行め「鹿沼の刀工、細川正義の門弟、濤江介正近」56頁4行め「酒井濤江介正近」になるのである。
 さて、細川正義の門下を辞して、54頁18行め「数日の後、八年前と同じ下原村の武蔵太郎の家」に行き、今度は鄭重に迎えられる。8年振りに対面した武蔵太郎は、素気なく追い返した濤江介のことを覚えていることになっているのだが、これには設定上の工夫があって、幼時に一度会ったきりの沖田総司も濤江介を覚えていたことになっている。これについては沖田総司と再会する場面で確認することとしよう。
 55頁16行め、濤江介が打った「白鞘の大刀」を見せられ、56頁9行め「以後、私もこの下原鍛冶の仲間に入れて下さいますか」と言われて、10行め「太郎は一瞬、逡巡の色を見せ」つつも、17行め「自分達の仲間に入れておいて決して損をしない男だ」と計算して、18行め「客分として滞在」させることにする。
 と、ここで計算がおかしくなって来る。57頁2~15行め、

 下原に於ける濤江介の仕事振りはやはり、鹿沼でと同じく熱心であった。年は三十になったと/いうのにまだ妻帯をする気もないらしい。刀を作ること自体が楽しくて好きで仕様がないという/風なのだ。武蔵太郎はそういう彼に好もしさを覚えた。
 後世に残る銘刀を彼と共同で作ろう――。それを申し出ると濤江介は即座に口もとを緩めて、
「いいですな」
 と言った。二人は修験場、高尾山に籠って刀を打った。太郎と濤江介と交替で本槌と向う槌を/打ち、疲れれば眠り、覚めては打ち、十日目に一振りの太刀が完成した。銘に、
  安政二年乙春二月吉日
  奉剣 高尾山飯綱大権現
  酒井濤江介正近神前斎戒沐浴
  武蔵太郎安定一百日鍛之
と刻んだ。長さ八七・二センチ、反り二・三センチ。木枯作りの太刀である。
 濤江介の剛直さと、安定の気品の高さが渾然一体となった銘刀と評された(この刀は高尾山に現存する由である)


 ここの記述は、村上孝介『刀工下原鍛冶』の「66. 正近,正親」の最後の段落(258頁25行め~259頁2行め)に拠っている。

 八王子市高尾町高尾山薬王院の宝物に長さ87.2cm,反りが2.3cm 中心の長さが/26.1cmという木枯造りの太刀がある。武蔵太郎安貞と正近の両銘であるが,姿は華/表反で,真の棟が低く,表裏ともに薙刀樋に添樋があり,刄文は直刄仕立の湾れに/互の目足入りで,小沸がついているが,匂は締らず,総体に見処の少ないものであ/り,鋩子は小丸で返りは深く,ほとんど元まで1~2寸の処まで焼き下げ,地肌は/板目肌が細かく,表面光強く,柾目肌が刄縁に沿うて一面に現われ,弱い感じの地/鉄であった。中心は少し反り心があり,平に肉は全くなく,鑢は切で,棟は丸,先/は浅い栗尻であった。銘は表に「安政二歳次乙卯春二月吉日生」,裏に「奉献高尾/山飯綱大権現 酒井濤江介正近 武蔵太郎安貞 神前斎戒沐浴 一百日謹作之」とあ/り,安貞・正近の合作であることは歴然としているが,総体の作風から大部分正近/【258】の手になり,銘は安貞が切ったものであろうと見える。この太刀は安貞最後の作刀としても貴重な資/料であるが,両人は山麓に鍛刀場(小屋)を新築し,十数日間参籠して鍛刀したと伝えている。


 銘に「神前斎戒沐浴/一百日鍛之」とあるとしながら「十日目に‥‥完成した」とは妙だと思ったのだが、村上氏の引く伝承に従った結果らしい。気になるのは銘が若干違うところで、特に「武蔵太郎安貞」を、初め「武蔵太郎」として登場させ、ここで初めて「安貞」ならぬ「安定」と云う諱を持ち出すのである。
 どうも、この諱を少し変えたところに森氏の主張があるらしい。下原鍛冶は山本姓の同族集団なのだが武蔵太郎安貞は井出姓で、村上孝介『刀工下原鍛冶』では1つ前、209頁14行め~234頁20行めに長々と記述されている「29. 武 蔵 太 郎 安 国」の弟子筋で、そのことは「30. 安     貞」の236頁33行め~237頁4行め、

 安貞の銘を見ると,1本1本皆違っている。中には到底同一人の作と思えないものさえある。そし/て偽物も相当に多い。安貞は記録によると,八王子の上長房に住して鍛刀したことになっているが,/【236】その子孫は今も小名路に残っているから,何代まで鍛刀したかは別として,代々安/貞があったことは事実のようである。銘鑑にも元治頃の安貞が載っていることは既/に記した。したがって安貞の初代は享保で,その後,明治に至ったのであろうから,/数代を数えることが出来るわけである。

とあり、238頁14~15行めにも「‥‥井出家は八王子市の小名路に現存するの/であるから,‥‥」とあって、そもそも下原に居住していなかったらしい。11月13日付「大和田刑場跡(15)」に検討した後藤安孝「武州下原刀の研究(十九)――武蔵太郎安貞――」に拠れば小名路の金南寺が井出家の菩提寺なのである。
 小名路の地名は金南寺に由来するのだが、現在の八王子市西浅川町にほぼ重なるらしい。今も小名路バス停、A・Bの2棟から成るアパートのドミール小名路、小名路児童遊園にその名を止めている。江戸時代には武蔵国多摩郡上長房村の一部であった。
 そうすると、森氏は武蔵太郎安貞は下原鍛冶の弟子筋で、下原鍛冶の「最も大きな家」でないことを承知していたものの、頭の中で温めていた設定を優先する形で、敢えて「下原」の「集落」の「最も大きな家」とし、そこは虚構であることが分かるように「安貞」ではなく「安定」と諱を変えたのであろう。
 なお、後藤氏は村上氏が「数代」と曖昧にしていた武蔵太郎安貞を五代に整理し、濤江介正近に関わったのは四代安貞としているのだけれども、その年齢の推定など少々問題がある。武蔵太郎安定は「中年の男」すなわち濤江介正近より年長の設定だが、高尾山薬王院に奉献した太刀を合作した武蔵太郎安貞は、五代安貞の生歿年からして年下と見るべきである。
 しかし、小説としての虚構として、以上指摘して来た疑問点を許容するとしても、それでも流石に次の辺りは、設定上の綻びが目立つようである。――濤江介は、沖田総司が五、六歳のときに「ことし二十歳」だったはずで、『定本 沖田総司――おもかげ抄』は、沖田総司の歿年齢を二十五歳で書いているはずだから、2人の出会いを嘉永元年(1848)と仮定して見た。そうすると濤江介が「三十になった」のは安政五年(1858)のはずである。『定本』の「補遺」の最後に述べている、沖田総司の歿年齢を二十七歳とする説に従えば「ことし二十歳」は弘化三年(1846)、「三十になった」のは安政三年(1856)になる。しかし2年早めたところで安政二年(1855)に武蔵太郎と太刀を合作することは出来ない計算である。(以下続稿)

*1:ルビ「おんかた・したはら」。

*2:上記、合作の太刀のことは「66. 正近,正親」に説明があるためであろう、「30. 安     貞」では濤江介正近には全く触れていない。

*3:ルビ「か ぬま」。