瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(10)

 昨日の続き。
 さて前回は、文久二年(1862)の「春の終り」に請け負った偽物の五郎正宗の大刀によって五十両もの大金を手にしながら、11ヶ月も経った文久三年(1863)二月になっても*1まだ、武蔵太郎安定の許での食客生活を濤江介が続けていることについて、随分もたもたした展開だと疑問を表明したのだけれども、これはこの五郎正宗の偽物のために父が縊死したとて濤江介を父の仇と付け狙う若者についても云えるので、御家人株については一切を父に任せていて何も知らぬところから一から調べないといけなかったにしても、もっと早く尚武堂新兵衛そして濤江介正近に辿り着きそうなものだと思うのである。
 と、新選組の知識のない私なぞは思ってしまうのだが、次の展開を文久三年二月に設定したことにはもちろん意味がある、と云うか、そこに合せるために11ヶ月も経ってから若者が下原に乗り込んで来て、濤江介は下原を離れざるを得なくなる、と云うことにしているのである。
 若者に追われて逃げ出した濤江介は、67頁1行め「江戸へ」向かうのだが、2~4行め、

 江戸――といっても知り合いはいない。強いていえば近藤勇の一門ぐらいである。たずねたず/ねて彼が牛込柳町の試衛館道場に着いたのはその日の夕方であった。汗と埃によごれ、草履はす/り切れて裸足になっていた。

と、試衛館を頼るのである。当時の試衛館がどのような状況だったかは『定本 沖田総司――おもかげ抄』40~48頁11行め「四 京 へ」の章の冒頭、40頁2~3行めに、

 翌文久三年二月八日、試衛館の主だった門弟は、近藤勇とともに幕府の浪士徴募に応じて京に上っ/た。土方、沖田。山南、永倉、藤堂、原田、井上等である。‥‥

とあるように、後の新選組の幹部となる連中と、本作に戻って68頁10~11行め「幕府の浪士徴募に応じて、道場をたたんで京に上/ることにした」まさにその直前に丁度来合せるように、下原を脱け出させているのである。
 ところで、下原から牛込までであれば50km以上歩いたであろう。文久三年二月上旬はほぼ1863年3月下旬に当たっていて、春分の前後である。しかし若者の襲来が早朝だったとしても、なかなか「その日の夕方」までに、しかも「たずねたずねて」では、とても牛込まで辿り着けそうにない。尤も大河ドラマなんかでも登場人物がかなり距離のあるところを容易に往来していることもあるから、小説の設定では多少の無理には目を瞑るべきなのかも知れないが。
 それはともかく、濤江介は68頁5行め「しかし、こういう結果になって、私は下原にいられないんですよ」と言い、8行め「しばらく江戸にかくれていようとお思いますが、何しろ着のみ着のまま逃げて来ましたので――」と言って、試衛館に置いてもらう気満々なのである。
 これにより五郎正宗の偽物の代金五十両は下原の家に、使った様子もないから恐らくそっくりそのまま置いて来たことが分かる。まぁそうだろう。
 この若者は、武蔵太郎安定と揃って再登場する。そこから同じ日に下原では、武蔵太郎安定が門弟からこの一件を聞かされ、若者にも直接会って詳しく事情を聞いた上で、門弟を引き連れて失踪した不埒者の濤江介の家を家捜しして、五十両を見付け出して若者に返した、と云った筋が考えられるように思う。
 下原にいられなくなった事情を聞いたのは沖田と近藤の2人で、濤江介は68頁1行め、さらに「もう一行、頼まれはしませんでしたが銘を入れた」ことを白状する。3行め「楠正成蔵と」入れたと云うのだが、これは五郎正宗の大刀に入れたのだろうか。それはバレるだろう。
 その後12~13行め「稽古を終えた内弟子達がこの部屋にやって来て夕食をかっこみはじめ」るところで「近藤はその一人一人/を」濤江介に「紹介」する。16行め、事情を聞いていない「彼等は濤江介に京上りの一行に加わるのか、とき」くが、17行め「いいえ、私は刀鍛治でして、剣術の仕事はとても……」と断ってしまう。そこで69頁2行め「近藤は奥へ行って妻女と相談していたらし」く「やがて幾許かの金包みを持って来」て、濤江介に渡す。17行め「丁寧に礼を言って試衛館を辞去」するのだが、その前に小島鹿之助に借りた鎖帷巾を着て「楽しそうな表情」の沖田総司を登場させている。
 ここで構成を確認して置こう。本作は3節に分かれていて幼児期の沖田総司によって刀鍛治を志してからこの場面まで、すなわち48~69頁が「一」節め、70~81頁10行め「二」節めは京での濤江介、81頁11行め~96頁6行め「三」節めは死の床にある沖田との再会、そして処刑までが描かれている。(以下続稿)

*1:当時、春は正月・二月・三月の3ヶ月、よって尚武堂が訪ねて来たのは三月で納品(!)は早ければ三月中、恐らく四月になってからであろう。文久二年は閏八月があるので四月(上旬)から二月上旬までで11ヶ月と云う勘定になる。