瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(13)

 昨日の続き。
 もちろん、濤江介は近藤勇沖田総司に偽刀作りの詳細を明かしたりはしないので、こうなるまでの経緯は87頁17行め~89頁7行めに、回想のような形で説明されている。――87頁17行め「小萩を連れて江戸の町を放浪している時、両国橋の上で偶然、尚武堂に会」い、18~19行め「吉原に案内」され「豪勢な酒肴でもてなしたうえで、又偽刀を作って/くれ、と頼」まれる。濤江介が渋ると、88頁1~3行め、

「へい。そこはぬかりはございません。今度は真物を手本にして作って下さいまし。古刀は今、/飛ぶように売れています。金をつかむ時期は今でございます。今度は決してああいう御迷惑はお/掛けしませんから」

と説得する。4行め「濤江介は‥‥すでに身重になってい」る小萩が、5行め「久しぶりに口にする豪華な食事に、せっせと箸をすすめている」のを見て、尚武堂の提案に乗ることを承知する。10~14行め、

「しかし、仕事場がいる。材料や準備の資金もいる」
「そこは抜かりはございません」
 尚武堂は懐中から金包みを出した。
「八王子の小比企に家を用意しておりますから。何しろ濤江介さんほどの技量の方をむざむざ、/遊ばせておくのはもったいない」


 初め、――こんなにあっさり尚武堂新兵衛と会ってしまうのなら、他の人にも見付かってしまうだろう、と思ったのだが、ここまで読むと尚武堂は濤江介が横井仙斎のところにいることを知っていて、娘と逐電したことを知って、遠からず江戸に戻って来るはずだと踏んで待ち構えていたとしか思えない。
 12月10日付(02)にて「あとがき」の書き振りから森氏の作風を同人誌的と評してしまったのだが、その後『沖田総司抄』に載る他の作品にも眼を通して見るに、やはり本作が、沖田総司とどの程度関わりがあったものか良く分からぬ人物を、大部分想像で書いてしまったために特に粗さが目立つので、そうでない、新選組隊士や沖田の家族をメインに据えた作品は、水準以上に書けているように思ったのである。
 しかし残念ながら本作は、大牟田で捕物展を開催した名和弓雄に鑑定を依頼したところから「浮洲」の正体が「酒井濤江介正近」と判明した、その感激に衝き動かされて書いて見たものの、元々多くなかった材料を、さらに武蔵下原鍛冶研究の第一人者だった村上孝介の教示に従い「完全な偽銘」または「後代の偽銘」として排除し絞り込んだ結果、僅かな点を強引に結んで行くような按配になってしまっている。
 やはり疑問なのは、五郎正宗の偽物を作ったために「八王子在」の「下原」にいられなくなった濤江介に、わざわざ「八王子の小比企に家を用意して」いるところで、これではわざわざ捕まりに戻って来たようなものである。――濤江介が「小比企住」であったことは銘鑑類にも見えるから、最終的に「小比企」に落ち着かせるべきである。しかし11月12日付「大和田刑場跡(14)」に引いた村上孝介『刀工下原鍛冶』の「66. 正近,正親」の冒頭に「幕末の八王子鍛冶として名を出したのは正近である。しかしこれは下原鍛冶の1人ではなく,細川正義の門人で,‥‥」と述べているように、下原鍛冶の弟子筋の武蔵太郎安貞との共作もあるが、下原鍛冶の一門に加わった訳ではない。11月11日付「大和田刑場跡(13)」に引いた村下要助『生きている八王子地方の歴史』に拠れば、天保六年(1835)に小比企に移り住んでいる。村下氏は年齢を突き止めていなかったが当時濤江介は三十七歳である。下原鍛冶との共作や、時代と同じくし、場所もほぼ同じ辺りであるところから「下原鍛冶」の括りで取り上げられているけれども、既に小比企に移り住んだ時点で一人前の刀鍛治であったのである。そこは村上氏も踏まえて、上記のように述べている訳である。しかし森氏は、浮州の短刀を見て「武州下原刀ではないか」と感じた名和氏に『刀工下原鍛冶』の著者・村上氏を紹介してもらったことがそもそもの切っ掛けであったことに引き摺られて、濤江介が初め「下原鍛冶」への入門を断られるだの、「下原」での数年に及ぶ「食客生活」だのと、必要以上に下原との関わりを強調し過ぎ、結果、設定に無理が生じているように思われるのである。
 小比企村は八王子宿の南に隣接する村で、11月11日付「大和田刑場跡(13)」に引いた村下要助『生きている八王子地方の歴史』に拠れば酒井濤江介正近は「小比企式位稲荷社の社務所」に住み、その「縁の下」を「鍛冶場所」にしていたと云う。この「式位稲荷」なる呼称は本書以外には見当らないのだが「川ぶちにあり」と云うのだから湯殿川べりの小比企稲荷神社に違いない。八王子市小比企町1201番地、同じ番地の由井第三小学校(村下氏の母校)の東に隣接している。
 この辺りは八王子宿の中心であった横山宿(横山町)八日市宿(八日町)から 2.3km 程しか離れていない。下原は「下原刀鍛冶発祥の地石碑」を目安にすると横山宿から 8.6km である。歩いても2時間半程しか掛からないような場所に「弟子も住込みが五人いる」ような工房を構えていては「濤江介正近」と刻んでいなくても、じきに下原に知れてしまいそうなものだ。
 本作に戻って、――この後、濤江介は近藤に沖田のことを頼み、松本良順に面会して沖田の容態を聞いている。ところが、91頁1行め「一カ月ほど経って」再び「医学所を訪れ」たときには、3行め「空家同然」になっていて5~6行め「近藤勇さんや、沖田総司」の消息も分らなくなっていた。その後、近藤勇の斬首は13~14行め「新聞の/もしお草で知」るが、沖田総司の消息は結局分らないままになる。(以下続稿)