瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(11)

 それでは「二」節めの検討に入ろう。
 この節は、70頁8行め「夏の陽」が照りつけて暑い日に、4行め「新選組副長助勤」の、2行め「沖田総司」が「部下を引きつれて市中巡察をしてい」る場面から始まる。文久三年(1863)六月であろう。文久三年は前年に閏月があったので太陽暦とのズレが大きく、六月は1863年7月16日から8月13日までである。
 この時期だとまだ新選組と称していなかったようだが、森氏は8~9行め「この年の二月に上洛して新選組を結成した/ばかり」と書いていて、名称など一々正確に書こうとはしていないようだ。それはそれで良いと思う。
 そのとき平隊士が、16行め「汚い乞食がさっきから従*1いて来ますぜ」と言うのだが、その71頁13行め「側へ寄ると臭いがしそう」な男が、12行め「江戸を食いつめてしまった」濤江介で、19行め「都大路の真中」で、17行め「やっぱり頼るのはあんたや近藤さんだ」と、72頁2行め「大きな声で」言われて、71頁18行め「ともかく屯所に」連れて行く。近藤に話すと72頁10行め「当分、逗留させておいてやろう」と度量があるところを見せる、と云うか。甘い。
 12行め「新選組の客人として濤江介は丁重に隊士達から扱われた」ものの、15行め「為すこともなく‥‥退屈」しているうち、16~17行め、

 ある時、壁に掛けてあった隊士の羽織を寸借してちょっと町に出てみた。上背のある容貌魁偉*2/な彼が肩を振って歩くと、人びとは恐ろしそうに道をさけた。‥‥


 そして73頁1行め「四条河原町」の「大きな呉服屋」で、2~3行め「二人の浪人風/の男が居丈高になってどなり」と云う、4行め「ゆすり」の現場に行き合わせる。6行め「あ、新選組や」と言って「人びと」が「さっと道をあけた」ため勢いで、12行め「拙者は新選組の酒井である。町人に対して無体な乱暴は止せ」と言って、11行め「店の中に入っ」てしまう。74頁3行め「口がカラカラに乾」くほど緊張しながら精一杯の芝居を打ったことが奏功して、恐れを成した「二人は急に背を向けて店から」逃げ出してしまう。10行め「ほんのお礼の気持どす」と、8行め「差出」された十両の「金包み」を、12行め「懐中にし」て「その日の夜」沖田に、14行め「新選組はいい商売だねえ」と話し、18行め「当分、これで遊んでいられる」と嘯くので、75頁7行め「沖田は真赤になっ」て、8行め「新選組の隊規違反の罪に問われたらどうします。ひとつ、勝手に金策致すまじきこと」と言うが、9行め「まだ新選組隊士ではない」から「俺には隊規は適用されない」と反省の様子もない。13行め、剰え「翌日も誰かの隊服を着て町に出て行」き、14行め「二十両を懷に」して帰って来る始末である。
 15行め「沖田からその話をきい」て17行め、土方は「面倒な問題が起こらないうちに出してしまおう」と言うが18~19行め、近藤は「しかし、せっかくわれわれを頼って来ているのだ。むげに放り出すわけにも行くまい……。そ/うだ、いい考えがある」と、76頁2行め「顔馴染」の「石清水八幡宮のふもと*3」の「三條小鍛冶の流れを汲む刀鍛冶」に、3行め「添書を書いて」頼もうと提案、5行め「翌朝、沖田と連れ立って」77頁13行め「六十近い痩せた男で顎の下にわずかな髯をたくわえ」た「横井仙斎」の家を訪ねる。14行め、仙斎は「ほかならぬ近藤先生の御依頼じゃ」と引き受けてくれるのだが、最初に応対に出た76頁9行め「十八、九の細面の娘」を見て、77頁1~4行め、

‥‥。濤江介はこの時、三十五歳。今まで全く女を知らなかったわけではな/い。金があれば岡場所へ行くこともあった。しかし、ただそれだけのことであって、女、という/生物が彼の心に入ることは未だかつて無かった、実に晩生*4ながら濤江介の初恋がこの娘を見たと/たんに始まった、といっていい。

と濤江介は18行め、仙斎の「娘」の「小萩」に惚れてしまうのである。78頁1行め「妻に先立たれて男手一つで育て上げ」たと言う小萩は「来年、近江の方へ嫁ぐことになってい」るのだが、77頁11~12行め、濤江介の「視線を感じ」て「チラ、と/上目づかいに濤江介を見たが、どういうものか白い頰を染めてしまった」と云った按配で、78頁14行め「数カ月経っ」て「冬の半ば」に沖田が「大坂出張の帰り道に」仙斎の家に「立寄ってみ」ると、79頁5行め「濤江介」は7行め「娘の小萩と駆け落ちしてしまったのじゃ」と言われる。当時冬は十月・十一月・十二月の3ヶ月だからその「半ば」は文久三年十一月と云うことになろう。実は近江の縁談には余り乗り気でなかったところに、濤江介に積極的に Motion を掛けられて、そちらに心を動かされてしまった、と云うことだろうか。
 ところで文久三年(1863)に「三十五歳」だから、12月14日付(06)にて沖田総司と初対面の場面で考えて見た、文政十二年(1829)生と云う計算で、ここは合っている。
 さて、このとき、仙斎から、80頁3~4行め「濤江介が貴方にと、何/か作っていましたぞ」と言って、5~6行め「一振りの短刀を」渡される。「まだ荒砥だけなので、刃紋も/わからない。女持ち、といっていい小刀である。」――この「短刀」が、森氏が司馬遼太郎から贈られた「浮州」銘の短刀なのだが、従来、11月24日付「大和田刑場跡(25)」に引いた名和弓雄『続 間違いだらけの時代劇』の「沖田総司君の需めに応じ」での紹介が専ら参照されて来た。
 しかし、本作の紹介の方が詳しい。名和氏がその後、この短刀を見る機会があったかどうか分からないが、執筆に当って再確認するようなことはなかったろう。それに対して森氏は所有者であり実物を脇に置いて、恐らく村上孝介に見てもらったときに聞いたことなどを盛り込みつつ、その年のうちに書いているのだから、小説としての虚構が混じっている可能性もあるが、より正確な描写が為されていると見るべきだろう。
 長くなるがその辺りを抜いて置こう。80頁8行め~81頁7行め、

 京に帰るとすぐその短刀を行きつけの砥師に出してみた。ついでにこしらえの方も依頼してお/いたところ、二カ月程して完成し、屯所に届けられた。
 黒塗の鞘で柄*5は鮫皮、目貫は猿が牡丹の花枝をかついでいるごく簡素なものである。抜いてみ/た。
「ほ、ほう」
 傍で見ていた永倉新八が歎声を発した。刃紋は直刃*6であやめの葉のようなすがすがしい直線を/見せている、刃が厚くちょうど手ごろの重さである。
「濤さんが作ったのか」
 いつの間にか近藤もこの部屋に顔を見せた。
「なかなかいいものを作るようになったじゃないか」
 濤江介の失踪についてはすでに近藤も知っていたが、その事には何もふれなかった。
「刀は、大も小も何本でも有っていいものだ。脇差には短すぎるが、何かの役に立つ時もあるだ/【80】ろう。銘を見せろ」
 沖田は目釘をはずし、柄を取って中心*7を出した。片面に「信濃国住浮洲造之」その反対面に/「応沖田総司君需 文久三年八月於京」と彫ってある。
「濤さんは京に来てからはずっと浮洲という銘を使っていたそうです」
 沖田は仙斎から言われた通りに近藤に説明した。
「それにしても信濃国住とは考えたな。余程露見するのがこわいのだろう」
「そうですね」


 「浮州」と書いていた名和氏に対して本作は「浮洲」になっていることなど、小異があるのが気になるが、今後、この短刀に触れる場合はむしろ本作を主に、名和氏の『続 間違いだらけの時代劇』を従に、記述するべきであろう。「仙斎から言われた通りに‥‥説明した」とは、恐らく「村上孝介先生から言われた通りに‥‥説明」しましたよ、と云う含みのある表現なのである。もちろん写真でも何でも、実物の情報が分かるに越したことはないのだけれども。
 さて、森氏は短刀の銘「文久三年八月於京」に合わせて、濤江介正近も上洛してこの短刀を鍛えたことにしている。しかし「石清水八幡宮のふもと」は今は京都府だけれども、当時の考え方では「京」のうちに入らないだろう*8
 それから、この短刀を鍛える場所を提供するために横井仙斎と云う、どうやって近藤勇と「顔馴染」になったものだか、とにかく架空の刀鍛治が登場するのだが、実在の酒井濤江介正近は30年早い寛政十一年(1799)生だから文化年間(1804~1818)の初年の生れである仙斎よりも何歳か年上で、とてもでないがその一人娘を見て生れて初めて恋に落ちた、なんてことにはならないはずである。――森氏が濤江介の年齢を知っていたらどう書いたか、絶対に本作のようにはしなかったろうが、少々興味のあるところである。(以下続稿)

*1:ルビ「つ」。

*2:ルビ「かいい 」。

*3:ルビ「いわし みずはちまん」。

*4:ルビ「お く て」。

*5:ルビ「つか」。

*6:ルビ「すぐは 」。

*7:ルビ「な か ご」。

*8:京都の範囲については、2016年2月25日付「井上章一『京都ぎらい』(1)」に、井上氏の著書の宣伝を批判する形で書いた。