瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(18)軍事郵便⑦

 これは軍事郵便ではなく、かつ祖母の夫の歿後のものになるが、同じ朝日出版社の封筒に纏めてあったので、通し番号を打って記事の題も仮に「軍事郵便」のままとして置く。
・𠮷田清の通夜の案内【16】
 B4判1枚謄写刷。私の家のスキャナではA4判までしか読み取れないので、2つに分割して上げる。

右側
左側

過般サイパン島ニ於テ壯烈ナル戰死ヲ遂ゲラレタル /
故𠮷田 清少佐殿ノ御通夜ヲ來ル二十九日〔土〕一八〇〇/頃ヨリ二二〇〇頃迄ノ間左記遺族宅ニ實施セラル/ルニ付御通知申上候
御手數乍ラ御出席ノ有無二十六日夕迄ニ參本第二課庶/務将校〔畠 又ハ 𠮷田大尉省内二三八七番〕宛御一報相煩ハ/シ度
尚今囘ハ都合ニ依リ市ヶ谷台上ノ同期生ニノミ止メタルニ付/爲念
                 44期幹事


 昭和19年(1944)7月18日に戦死した𠮷田清の通夜は、7月29日(土)18時から自宅で行われているが、その何日か前、恐らく1週間前の22日(土)までに作成して東京近辺の同期生に回した通知である。
 左半分は行き方を案内した略地図である。印刷されている文字は読めると思うので全て文字起しする必要はないだろう。その上下に、遺族である祖母と連絡を取った陸士同期生による鉛筆の書入れがある。
 まづ、略地図を確認しながら当時の祖母一家の住所について見て置こう。
 当時は東京急行電鉄帝都線であったが開業当時の名称である「帝都電鉄」と書いている。
 最寄駅の「一高前」駅は戦後、昭和26年(1951)12月に「東大前」駅と改称され、昭和40年(1965)7月11日に西に近接する駒場駅と統合されて駒場東大前駅になっている。位置は東京大学駒場キャンパスの梅林門の南、井の頭線の神泉2号踏切の辺りで島式ホームであった。
 そこから南にすぐ、階段を下り、さらに緩く下って目黒川の支流の空川を渡る。現在下流側が暗渠の歩道となって面影を残している。
 そこからしばらく登りになるが、その坂の途中に分岐があってそこを左。「コンクリート道」とあるが現在はもちろんアスファルト舗装されている。「約三〇〇米」で淡島通りに出る。[校學兵重輜]の位置には現在、東京都立駒場高等学校がある*1
 そこから淡島通りを「至渋谷」の方に「約一〇〇米」進んだところが「宅住社行偕」の入口で、その西南角近くが「目黒区駒場町八〇一/𠮷田 淸宅」であった。この略地図ではこの約100mの途中に「松見坂上〔バス下車〕」とあって、「バス〔淡島行〕渋谷駅ヨリ」の場合、松見坂上バス停で下車するよう指示している。松見坂上バス停は通学の便宜を考えてであろう、現在、何十mか西の駒場高校の前に移転している。淡島には現在も東急バス淡島営業所があって、渋谷駅から淡島行のバスが出ている。
 偕行社目黒住宅*2は、現在の目黒区駒場1丁目16~19番辺りらしい。二・二六事件の首謀者の1人栗原安秀中尉(1908.11.17~1936.7.12)が住んでいたと云うのでネット上に、跡地を訪問したり検証したりした記事が散見される。昭和11年(1936)陸軍撮影の航空写真と古地図、そして現在の地図や空中写真を参照するに、目黒区駒場町801番地の𠮷田清宅は現在の目黒区駒場1丁目17番8号に当たるようだ。そうすると、伯母が昭和19年(1944)4月に入学した国民学校は現在の目黒区立駒場小学校、当時の東京都駒場国民学校であったろう。
 この辺りは昭和20年(1945)5月25日夜の山の手大空襲で焼かれてしまった。しかし、遺族である祖母たちは被災を免れている。祖母は関東大震災のときは直前に父親の赴任先の朝鮮に移っていて難を免れ、そして東京の空襲も、鳥取市の夫の実家に疎開していて遭っていない。ほぼ東京で暮らしていたのにこの2大災厄の前後だけ、短期間東京を離れていて被災していないのである。――夫の歿後に夫の実家で疎開生活を送ると云うのはなかなか難しかったらしく、余り長くはおらずに父親を頼って上京している。その際、夫の実家とは絶縁するような形になり、思い出のある夫の荷物、短い結婚生活の間に夫が付けていた句帳には随分良い句もあったのだけれども、そのまま夫の実家に置いて来ざるを得なかったと言っていた。しかし自分の物は持ち帰ったので、それで戦後、筍生活が可能になったそうである。着物の他にもこれら軍事郵便やアルバムなども鳥取に送っていたから(或いは自分の実家に預けていたのかも知れないが)こうして今に残っているのである。
 なお、夫の実家のある鳥取市材木町は昭和27年(1952)4月17日の鳥取大火に被災しており、夫の遺品はこのとき失われてしまったのではないかと思われる。
 それでは書入れ、まづ略地図の上から見て置こう。読みが怪しいところもあるが仮に上げて置く。

   首藤生
𠮷田令夫人様
一、本紙ノ通リ連/ 絡シテオキマシタ
二、電話デ申上ケマシタガ/ 不明瞭デシタノテ/ 再ヒ若干申上ケマス
1.僧侶ハ禅宗トノ/ デシタノテ二十九日/ 二〇〇〇頃来テモラ/ ウ様ニ折衝中デス
2.写真ハ予定通リ/ 二十七日ニ出来マス
3.二十八日カ九日ニ参上/ シ面談連絡申上ゲマス
4.オ供物等ハ若干準備仕リマス/ 御心配ナキ様ニ
5.同期生ニ対スル食事等ノ御心配ハ/ 要リマセン


 「首藤生」は、陸士44期で、陸軍大学校第51期の首藤忠勇であろう。最終軍歴は航空総軍参謀。
 続けて略地図の下の書込みを見て置こう。

6.仏壇ハ写真/ ト形見ノモノ/ (軍刀カ何カ)/ ノ如キモノ丈デ/ 位牌ハ不要ト/ 存シテ居マスカ/ 御意見承ハリ/ 度存シマス
7.其他〓〓ニ/ 関シテハオ見ニ/ カヽリマシタ時ニ
三、尚諸連絡事項/ ガアリマシタラオ便リ/ ニテ水戸君か小岩井/ 君ニオ托シ下サイ


 大体読めたがどうも読みこなせない。水戸君・小岩井君と合わせて追々補足訂正して行くこととしよう。(以下続稿)

*1:昭和21年(1946)9月に東京都立第三高等女学校が移転。第三高女には2020年2月12日付「田口道子『東京青山1940』(12)」に触れたことがある。

*2:「郷土目黒」第30集(昭和61年)に小池泰子「駒場の偕行社目黒住宅」が載る。都内に出た折にでも見て置くこととしたい。