瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話『紀伊の民話』(08)

 庭の梅の実も粗方落ちてしまった。昨日は1日勤務で帰りに高円寺に行ったりして、帰ってから拾う余裕がなかった。パソコンを立ち上げる気力もなかった。――4年振りの高円寺駅界隈は、変わっていないような、しかし何処となく違和感を感じさせる、妙な気分であった。薄暗くなった道を駅へ歩きながら、この辺りに老夫婦のやっていた仕立屋があったはずだが気付かなかった、あれはコロナの前に既に廃業していたのか、廃業していたけれどもそれと断らずに店構えだけがそのままだったか、そんなことを思いながら、久し振りに都内から満員の下りに乗って帰った。吉祥寺からは何回か乗っているので、それは別に驚きはない。そして今朝、雨が止んでいて枝の下の屋根が濡れていなかったので、ベランダから屋根に下りて枝に付いている梅の実を幾つか触って見た。外れないものは無理に捥がない。庭に落ちているのは5m落下しているので屋根や枝、庭石に当たって割れていることも多い。枝に付いているものはその点、傷みが少ないので後の手間が楽である。落ちているものも小蠅が湧くので放置は出来ないが、雨が降ると庭には出られないので仕方がない。しかし硝子瓶も20リットル分満杯になって、窮余の策で蜂蜜の壜に漬けている。今日枝から採った100粒程は塩漬けにしよう。この雨が止んだら、庭に落ちているものは穴を掘って埋めよう。いや、既に割れているものや、拾って洗って乾かしたけれども傷んでいるので壜に放り込めなかったものを600粒程、既に庭に埋めている。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 6日前の続き。――『松谷みよ子の本』が近所の図書館に揃えてあることは以前から知っていて、手にしたこともあったのですが、其処まで松谷氏の経歴を検証しようと思っていなかったし、何せ重たい。本文は単行本をそのまま収録している訳だから、こんな色々抱き合わせたものを借りずとも単行本で借りれば良い。それに、夕方に閉まってしまう児童室に排架されているので、これまで借りて帰ったことがなかったのですが、特に「あとがき」に伝記的な情報が多いので、色々辿って見ようと別巻含めて全11巻のうち、6冊を連休明けに少しずつ借り込んで(?)行ったのですが、身過ぎにかまけて積ん読になっておりました。
・『松谷みよ子の本 第9巻 伝説・神話・全1冊一九九五年十月二十五日・第一刷発行・講談社・757頁・上製本(20.0×14.8cm)

 まづこの巻を、前回取り上げた『別巻』とともに借りて見たのですが、736~742頁、松谷みよ子「あとがき」の736頁10~13行め、

 信州に続いて秋田、和歌山と、民話採訪及びその整理は、一九五六年から数年間集中して行われた。日本/を何も知らない自分に愕然*1とし、この手でじかに触れるような実感で日本を知りたい。という衝動に駆られ/ての旅であった。心象世界というときこえはよいが心の奥深くのぞきこむようにして小さな童話を書いてき/た私には、めくるめくような魅力に満ちた世界であった。

と和歌山への採訪に触れてありました。続いて伝説や昔話を纏めて出版する仕事や、語り手や郷土史家(民俗学者)との出会いを綴って行くのですが、740頁4~13行め、

 面白いこともあった。和歌山では半日歩き続けたあげく、目指す九十歳の老人の家にようやく辿り着いた/のに、「天狗なんぞおりゃせん。」とたったひとことで切って捨てられ、新しいぴかぴかの系図が持ち出され/た。早々に退散したが、バスとてなく、日は暮れる。ようやくトラックに便乗させて貰ったが、撃たれたば/かりのいのししの親子とずっと一緒だった。一方、吉野川のほとり、本宮で偶然出会った老人が「藤槇淵」/の話をしてくれた。落とした笛を追って吉野川の水底にいくと、美しい姫君が機を織っていた。竜宮界は海/の底だけではなく、各地に機織淵として存するのだが、東京へ帰り高木敏雄著による『日本傳説集』をみて/驚いた。同じ話があるのは日本の伝説として珍しいことではないのだが、話者の名が同一なのである。『日/本傳説集』は大正二年二月に上梓されている。高木さんが出会った話者と私の出会った話者は同じひとなの/か。それとも一時代前にはよくあった、代々襲名して同じ名を名乗っているのか。いずれにしても全くの他/人とは思えない。胸がはずむ。*2

と、紀州での体験をやや詳しく述べています。これは739頁6~9行め、

 ひとり旅を重ねて聞き書きを重ねたが、ときにはおそろしい目にもあった。信州・木曽の上松の養老院で/山崎朓治郎さんから寝覚ノ床の話を聞いた。淵に主が住み人身御供を強要するという珍しい話である。話の/なかに行者が出てくる。そのあたりもたしかめたくて再度木曽をおとずれ、木曽福島のある宿の内儀に問う/た。‥‥*3

に始まる『信濃の民話』のための採訪時の、木曾福島での体験に続いて書いてありますので、昭和34年(1959)の採訪時のことでしょう。
 しかし、ここも確認不足で色々とおかしなところがあります。「吉野川」は紀ノ川の上流で、同じ大和国奈良県)吉野郡に発しておりますが「本宮」を流れているのは「熊野川」、上流にしても吉野川ではなく十津川です。
 それから、高木敏雄が本宮の話者に出会ったかのように書いていますが、大正2年(1913)8月に刊行された『日本傳説集』は東京朝日新聞が募集した「民間伝説及童話」の報告を高木氏が分類整理して紙上に連載、更に1冊に纏めたものですので、高木氏は全く採訪に歩いていないはずです。かつ、報告者は日本各地の民俗学に関心を持った好学家のはずで、老人は余りいなかったのではないか、と思われるのです。
 松谷氏が帰宅してから見た話、これは2019年10月13日付「須川池(2)」と同じ要領で引用して置きましょう。高木敏雄『日本傳説集』一二〇~一四三頁「水界神話的傳説第十一」一三九頁11行め~一四三頁「(丙)龍宮傳說及機姫傳說」一三九頁12行め~一四二頁5行め「㈠龍宮傳說」一四一頁3行め~一四二頁5行め「(ロ)藤槇淵」、ちくま学芸文庫版では107~128頁「第十一 水界神話的伝説」125~128頁「丙 竜宮伝説及機姫伝説」125頁2行め~127頁7行め「一 竜宮伝説」126頁7行め~127頁7行め「ロ 藤槇淵」、初版の改行位置は「/」文庫版のそれは「|」で示しました。

 紀伊國熊野本宮の東、熊野川に沿ふて、藤槇淵といつて、*4何時も靑い水の渦卷いてゐる物|凄い/淵がある。その向う側に、面白い岩の上に、槇の古木があつて、昔ながらの藤が、そ|の幹にから/みついてゐる。若し此淵に不淨な者でも行くと、急に天氣が變つて、數知れぬ|蛇が淵の中から出/て、大暴風雨が起つて、村が荒される、と昔から云傳へてある。
 昔、或年の夏、本宮の笛の名人で、尾崎何某といふ老人が、此處へ來て、岩の上に立つ|て、祕/曲を奏してゐると、忽ち一陣の風が起つて、笛が老人の手から吹落されて、淵の中|へ落ちた。笛/は段々沈んでゆく。老人は秘藏の笛を取られて、惜くて堪らず、續いて淵の|中へ躍りこんだ。見/ると、淵の中には、一面に靑疊を敷詰めて、花のやうな乙姫が機を織|つてゐる。そして、其傍に/は石の竈が据え*5てあつた。【文庫版126】
 老人は乙姫の欵待に、*6心ならずも、三日の間逗留して、さて、笛を貰つて、乙姫に淵の上|まで/【一四一】見送られて、喜び勇んで歸つて見ると驚いた、三日と思つてる*7間に、早や三年の月|日が經つてゐ/た。家の者は、老人の行方が知れぬので、死んだと思つて、葬式を濟まし、|老人が歸つて來た時/は、丁度三年目の佛事の最中であつた。家の者の喜んだのは、云ふだ|けが野暮である。
 今でも、淵の水の澄切つた時分には、石の竈が見える、とか云ふ話である。紀伊國東牟婁郡本宮高栖清彥君)


 当ブログを開設して間もない頃『日本傳説集』の報告者について検証しようとしたことがありました。思わぬ展開になってしまったため断念しましたが、何事も起こらなければ、報告者について、他に著述がないか、確認するつもりで、当ブログ開設当初の柱にするはずでした。まぁ、それはともかくとして、高栖氏はこの1話のみ報告しているようです。松谷氏が会ったとき、高栖氏が何歳(ぐらい)だったかが気になりますが、『日本傳説集』当時まだ10代か20代だったとすれば46年後に70歳前後の「老人」として松谷氏の前に現れたとして、全くおかしくありません*8
 そして、今は国立国会図書館デジタルコレクションに全文検索機能が備わっております。全てが検索出来るようになっている訳ではありませんが、それでも以前よりは色々引っ掛かるようになりました。そこで「高栖清彦」で検索してみますと『日本傳説集』の他に、前川佐美雄主宰の月刊短歌雑誌「日本歌人の何号かがヒットしました。
第十巻 第二号/二月号(昭和34年1月15日印刷・昭和34年1月20日発行・定価 80円・日本歌人発行所・49頁)
  22~29頁下段12行め「二 月 集 Ⅰ」28頁上段20~23行めに3首
第十巻 第四号/四月号(昭和34年4月15日印刷・昭和34年4月20日発行・定価 80円・日本歌人発行所・45頁)
  22~27頁上段「四 月 集 Ⅰ」23頁下段16~21行めに5首
第十巻 第六号/六月号(昭和34年6月15日印刷・昭和34年6月20日発行・定価 80円・日本歌人発行所・35頁)
  15~20頁「六 月 集 Ⅰ」16頁下段15~20行めに5首
第十巻 第七号/七月号(昭和34年7月15日印刷・昭和34年7月20日発行・定価80円・日本歌人発行所・39頁)
  20~24頁下段10行め「七 月 集 Ⅰ」24頁下段2~10行めに8首
 居住地は示されていませんが内容から熊野の住人であることは明らかで、まさに松谷氏に会ったその昭和34年(1959)に、短歌雑誌への投稿が21首採用されていることになります。
 国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索で「高栖清彦」がヒットするのはもう1点、『松谷みよ子全エッセイ』刊行後の、『松谷みよ子の本』にも収録されなかった次のエッセイです。
・「河川」3月号(通巻548号)1992年3月20日発行・社団法人 日本河川協会・107頁)
 3~44頁【特集・川と日本文化】の13~19頁、松谷みよこ*9「民話の中の川」にこの伝説に触れ、こちらでは高栖清彦の名を明示しております。17頁左36行め~右7行め、

 このほか、川の底には美しい女神が在して機を/織っているという、龍宮淵の話は全国に多い。和/歌山を歩いていて出会った藤槇淵の話などは、い/【17左】かにも美しく忘れ難い。興深かったのは、そのと/き語ってくれた老人の名が高栖清彦氏であったこ/とで、東京の我が家へ戻って高木敏雄氏の伝説集/を開いてみると、同じ方の名がそこにあったので/ある。同一人なのかそれとも御子息でもあったろ/うか。全くの偶然とも思えない。その伝説を次に/記しておく。

として、1行分空けて8~35行めに『日本傳説集』の本文を引用しております。出来れば松谷氏の聞書を示して欲しいところでしたが。――これを『松谷みよ子の本』に収録しなかったのは、多くを他の著述と同じ材料を使って書いていて、内容の重複を避けるためだったろうと思われます。(以下続稿)

*1:ルビ「がくぜん」。

*2:ルビ「たど・つ /てんぐ /もら・う /よしの がわ・ほんぐう・ふじまきぶち//はたおりぶち・たかぎ としお //じようし//」。

*3:ルビ「しんしゆう き そ ・あげまつ/やまざきちようじろう・ね ざめ・とこ・ふち・す ・ひとみ ご くう/き そ ふくしま/」。

*4:文庫版この読点なし。

*5:文庫版「据ゑ」――初版はヤ行「据ゆ(る)」の連体形だが文庫版はワ行「据ゑる」に連体形にしている。

*6:文庫版「款待」。また、この読点なし。

*7:文庫版「いる」。

*8:例えば、2018年12月18日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(84)」に見たように、佐々木喜善に山の神の話を語った「鈴木竹治という青年」の訃報が昭和55年(1980)の町報に載っておりました。――こういった話は老人だけが知っている訳ではないのに、どうもそういう「年寄りの話」と云う予断で見てしまうために「代々襲名」と云う想像をしてしまったものと思われます。

*9:1頁(頁付なし)「目次」には「松谷みよ子」。