瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の思ひ出(07)

・森田たま『もめん隨筆』(1)
 義理の祖母は生い立ちから戦後のことまで、6月11日付(01)に述べた御機嫌伺いのときなどに、折に触れて様々な回顧談を聞かせてくれたのだが、ある日、馴染みの料理屋で御相伴に与っているときに「森田たまさんの『もめん随筆』に、母のことが出ている」と云う話が出た。それからしばらく後に、自宅マンションに伺った折に、「この前話していた『もめん随筆』」と、押入れの奥か何処かから掘り出したのだろう、古い文庫本を「読んで御覧なさい」と家人に貸してくれたのである。
 森田たま(1894.12.19~1970.10.30)の『もめん随筆』は、私の高校時代の『国語便覧』には、日本の代表的な随筆作品と云うことで名前が出ていた。しかし、女子高講師時代の『国語便覧』には載っていなかったと思う。もちろん読んだことはなかった。
 さて、私も早速その一篇のみ一読して、その新潮文庫はすぐに返してしまったのだが、それから少し経ってから某区立図書館で思い出して、文中に出ていた新聞記事を見付け出して、随分喜んでもらったことがあった。
 祖母の歿後、マンションを訪ねた折に、仏間の硝子戸の付いた本棚に『もめん随筆』があるのを見付けて、いや、以前からそこにあることは知っていたのだが、拝借して今、手許にある。
新潮文庫258『もめん隨筆』昭和二十六年十一月三十一日 發 行・昭和三十七年 八 月十 五 日 十六刷・定 価110円・283頁

 227~231頁「木綿のきもの」の、後段の3段落め以降、230~231頁

 震災の前年からその年にかけて池袋に住んでゐた。樹の多いしつとりとした一廓でおなじやう/な家竝の住み手はお役人や軍人さんのご家族で、從つて一年のあひだにも思ひがけない轉任でう/つり變りが多かつた。陸軍大佐で赤羽の工兵隊の大隊長が筋向うにをられたが、少將に昇進され/遠くへ轉任されて家をひき拂つてゆかれる時、その慌しい旅支度の最中に夫人みづから手を下し/て二階から階下から家中の障子といふ障子をことごとくまつ白に新しく張り替へてしまはれた。/おたちになつたあとからその話を耳にして今更のやうに感じたが、そのおくさんには私もいろい/ろと御世話になり、思ひ出すといつも何か清凉な風に吹かれるやうな心地がする。
 その頃はわけても神經質であつた私が、胃腸の弱い子供を氣づかつて殆どそとへ出さないのを/おくさんがあはれがり、毎日のやうに連れていつて遊ばせて下すつた。私がかうしてお茶の間か/らお針をしながら見てをりますから、まちがひはございませんよ、さういつておうちのお孃さん/とお庭で遊ばせて下すつた。お八つの時には紙に包んだお菓子を、一度お母さまに見せてからと/うちまで持つて歸らせて、私がさしつかへないといふと又引つかへして皆さんと御一しよにいた/だくのである。
 いへば何でもないやうな事ながらそれだけの親切はなかなかつくしがたいものである。肌寒い/ある夕方道ばたに行きあふと、ほつそりと細おもての美しいおくさんは兩の袖を胸にかきあはせ/て、おさむうございますことといはれた姿が、清方の一枚繪でも見るやうに清清*1とうつくしかつ/た。かきあはせた兩の袖がぢみな染絣であつたのに、まるで切りたての結城のやうにきりりしや【230】んと着てをられたのである。
 この春の新聞に、その將軍が滿洲から凱旋された記事が出て、昔ながらのまるまるとにこやか/なお顔をなつかしく拜したが、私の眼にはその向うにほつそりと清らかなおくさんの面影があり/ありと浮みあがつた。木綿の着ものはあのやうな夫人に着られてこそ初めて生きがひを感ずるで/あらう。私には資格がない。


 この将軍が祖母の父で、鏑木清方(1878.8.31~1972.3.2)の「一枚繪」のように「美しいおくさん」が祖母の母(1888.3生)なのである。
 森田たまに関しては、小林徹「作家 森田たまホームページ」に詳しいが、「森田 たま略年譜」に、大正11年(1922)から関東大震災大正12年(1923)まで池袋に住んでいたことが、まさにこの「木綿のきもの」を引用して指摘してある。森田氏の子供は、長女麗子(1918生)と長男信(1921.3.17~1985.8)の2人だが、年齢からしてここに登場するのは麗子であろう。そして「おうちのお孃さん」は、祖母の姉(1913.10生)祖母(1915.10生)祖母の妹(1918.11生)の「皆さん」である。
 「この春の新聞」については、追って記事を紹介しつつ解説することとしよう。なお「清方の一枚絵」のような雰囲気を受け継いだのは長女のみで、次女と三女、特に次女である祖母は「まるまるとにこやかな」将軍にそっくりなのであった。(以下続稿)

*1:ルビ「すがすが」。

湯浅初江、もしくは湯浅初枝(6)

 湯浅初枝については、その後、目星を付けて置いた新聞や雑誌の記事に当たって見るつもりだったのだが、コロナウィルスのために思うに任せない。
 しかし、今月から鼻中隔彎曲症のために通院している大病院で、具合の悪そうな老人がうようよしているのを目にすると、実は何も気にするに及ばないのではないか、と云う気分にさせられる。そして、どうも、そういう気分にさせたがらせた(?)上で、気の緩みの自己責任にしようとしているのではないか、と思われるのである。
 それはともかく、今回は、その後気付いたことどもをメモして置くこととする。
 7月20日に、Wikipedia 英語版にも「Hatsue Yuasa」項が立てられた。ドイツ語版に基づくもので新事実等はない。もうそろそろ日本語版にも立項すべき時期に来ているのではあるまいか。
 それから、昨年11月に(1)から(5)を投稿した際には見落としていた、大堀聰のブログ「日瑞関係のページ(補足版)」の2018-06-12「<3.箱根丸> 日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」の3人めに、「湯浅初枝 ソプラノ歌手」が挙がっていることに気が付いた。本文は以下の通り。

1939年7月6日神戸着の箱根丸で帰国したのが、ソプラノ歌手湯浅初枝である。翌日の読売新聞は
日露戦争当時広瀬中佐の名コンビ、旅順港閉塞隊相模丸船長として華と散った湯浅竹次郎少佐の一粒種、声楽家初枝(35)さんが15年振りに6日夜9時神戸入港の箱根丸で、故国の土を踏んだ。」と伝える。
湯浅はドイツで日本人の夫と別れ、ピアニストのワルテル・マイツナーと再婚するが、彼も8年前に死去し日本に戻ってきた。
そして「欧州へはもう行かないつもりです」と語った。

湯浅はドイツでの活躍が長かったので、ドイツ語版のウィキペデイアにも記載があるが、そこでは
「少なくとも1943年まではドイツとドイツの占領地で歌った。それ以降の消息は不明」となっている。これは上に書いた新聞記事に照らしても間違いだと思うが、、、
(2018年7月27日追加)


 この記事は大堀聰のHP「日瑞関係のページ」の「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」に転載され、こちらが「最新版」とのことであるが、<3.箱根丸>のやはり3人めに出ている湯浅氏の項は、同文である*1
 しかし、Wikipedia ドイツ語版に指摘されている、1943年1月31日(日)15時の Beethovensaal でのコンサートの告知を見る限りでは、その後ドイツに戻ったとしか思えない。
 すなわち「Einzelnachweise」にリンクされている「Führer durch die Konzertsäle Berlins」(ベルリンのコンサートホールのガイド) 第23巻第16号(1942年12月20日)は表紙も含めて16頁、その10頁めの中央やや上、12項並ぶうち6項めに、まづ上に、

BEETHOVENSAAL,sonntag, den 31 januar 15 Uhr

とあって、次に大きく「HATSUE YUASA」とあり、その下に「Am Flügel: Prof. MICHAEL RAUCHEISEN」と添える。これらの右に、太線の上にやや大きく「Die japanische Sängerin」下に小さく「Singt Gluck / Brahms / Strauß」さらにもう1行「Moderne Jap. Lieder u. Volksweisen」とある。ミヒャエル・ラウハイゼン(1889.2.20~1984.5.27)教授のピアノ伴奏で、日本人の歌手がグリュック、ブラームスシュトラウス現代日本の歌謡曲と民謡を歌う、と云うのである。
 第二次世界大戦勃発直前の、不穏な空気を感じて帰国したものの、父母既に亡く兄弟もおらず、大正12年(1923)の、恐らく関東大震災以前にドイツに渡って以来の帰国だとすると、その間の日本の変化にも馴染めなかったのかも知れない。――そんな見当になるのであろうが、今は更なる資料の発掘を俟つより他はない。
 今すぐにでも、箱根丸で帰国した際の、他の新聞の記事を確認したいところなのだけれども。(以下続稿)

*1:2021年9月15日追記】大堀聰のHP「日瑞関係のページ」の「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」は書籍化されたため、本文が削除されている。ブログ「日瑞関係のページ(補足版)」の記事、2018-06-12「<3.箱根丸> 日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」は私のコメントごと(!)削除されている。遠からず書籍版を見る機会を作りたい。