瑣事加減

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石崎直義 編著『越中の伝説』(1)

石崎直義 編著『越中の伝説』昭和51年9月15日 印刷・昭和51年9月25日 発行・定価900円・第一法規・174頁・B6判並製本 

越中の伝説 (1976年)

越中の伝説 (1976年)

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 第一法規出版のこのシリーズは1970年代に29点刊行されている。『東海の伝説』や『四国路の伝説』のように地方全体を覆うものから、『信州の伝説』『越後佐渡の伝説』『因幡伯耆の伝説』『沖縄の伝説』のように現在の県に相当する範囲を覆うもの、『播磨の伝説』『安芸の伝説』『出雲隠岐の伝説』のように県の一部に限定されているものもある。
 私の見た本にはカバーがないが、Amazon 詳細ページに掲出されている書影を見るに、カラーブックス(保育社)のような横縞の入った透明ビニールのカバーが掛かっていたことが分かる。
 表紙と裏表紙の見返し(遊紙)はクリーム色、表紙・裏表紙の裏には同じ「富 山 県」の白地図を掲出する。
 やや厚い白い紙の扉、小口から 3.5cm のところで縦線で仕切って、上部に縦長のゴシック体の標題、下部に横長の明朝体で「石崎直義 編著」。
 1頁、3字下げで「は し が き」とあり1行分空けて本文、1頁16行、1行46字。まづ歴史や地理について述べ概観し、2頁9~13行め、

 本書には、富山県に伝承されてきた、数多くの伝説の中から、県民性・風土性・歴史性の理解を深め/るものを精選した。しかし、単なる羅列的伝説集ではなく、読む人の心にふれ合って、ゆたかなイメー/ジをかもしだす興深いものを採り上げた。とくに読み物として喜ばれるように再話した。また、歴史・/民俗の研究資料として、比較研究にも役立つよう配慮して編著した。さらに、ハイキング・ドライ/ブ・家族行楽の際に持参して、現地でふるさとの伝説の心を味わっていただきたいと希っている。

と編纂に際しての配慮を述べ、そして最後に謝辞、3頁3行め、3字下げで「昭和五十一年文月上浣」、4行めやや大きく「石 崎 直 義  」。
 頁付は版面の小口側の下に斜体で入っている。ただ「9」のみ斜体になっていない。また、奇数頁の上部小口側に「は し が き」、以下「目   次」そして「自然伝説」云々と明朝体横組みの柱。
 4頁は白紙、5~11頁「目   次」は2段組で1段16行。11頁下段の最後、5~7行めに下揃えで「    表紙写真(五箇山合掌造家屋<本文六九/ページ参照>)/前仏 勇氏撮影」とある。
 12頁は白紙、13頁は上段は中央に明朝体縦組みで大きく「自 然 伝 説」とあって、下段、まづ2行取り1字下げでやや大きく「山 ・ 峠」と節を示し、ついで2~3行めに跨がって【1】「 立山開山 」と話の題、仮に【 】に節ごとに番号を附した。2行め3行めはその分、6字下げで本文、冒頭に「(中新川郡立山町立山*1) 」と地名を表示。以下各話も、題が2字3字でも6字分2行取り、字数が多い場合は上下1字分ずつ空けている。本文は1段16行、1行22字。モノクロの写真が多く挿入されており、この話では《1》14頁上段下左に小さくキャプション「富山市内から立山連峰を望む」、《2》16頁下段右(8行分)下左に小さく「雄山神社参道」の2つ、以下も同様に仮に《 》に番号を附して置く。本文は17頁上段7行めまで。
【2】「 美 女 平 」
   17頁上段8行め(中新川郡立山町立山) ~18頁上段8行め。
【3】「 亡 者 宿 *2
   18頁上段9行め(中新川郡立山町芦峅寺) ~19頁下段7行め。
【4】「 地 獄 谷 」
   19頁下段8行め(中新川郡立山町立山) ~21頁上段8行め。
    《3》20頁上段「立山・地獄谷」。
【5】「 反魂丹由来異聞 *3
   21頁下段9行め(富山市) ~22頁上段6行め。
【6】「 薬 師 岳 」
   22頁上段7行め(上新川郡大山町大山) ~23頁上段5行め。
    《4》22頁下段「薬師岳遠望」。
【7】「 称 名 滝 *4
   23頁上段6行め(中新川郡立山町立山) ~下段2行め。
    《5》23頁下段右(8行分)「立山称名滝」。
【8】「 人 形 山 *5
   23頁下段3行め(東砺波郡平村田向*6) ~24頁上段16行め。
【9】「 遊女雛菊の碑 *7
   24頁下段1行め(中新川郡立山町立山) ~25頁上段6行め。
【10】「 猿が馬場 」
   25頁上段7行め(小矢部市砺波山*8) ~26頁上段10行め。
    《6》25頁下段「くりから山中の猿が馬場」。
 「自然伝説」の1節めは以上10話。なお、「目次」では各話の題は、2~4字題までは5字分で均等割付にしている。ルビの有無は註に記した。(以下続稿)

*1:ルビ「なかにいかわ」。

*2:ルビ「もう じや やど」。「目次」にはルビなし。

*3:ルビ「はんごんたん」。

*4:ルビ「しようみようだき」。

*5:ルビ「にん ぎよう」。

*6:ルビ「たいら たむかい」。

*7:ルビ「ひなぎく」。

*8:ルビ「お や べ・と な み」。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(11)

・プカルア滞在期間について(3)
 さて、畑中氏がプカルアで1964年を迎えたことは「Ⅵ 太陽はプカルアをめぐる」の30節め、164頁16行め~166頁15行め「去っていく一九六三年」から章末の34節め、170頁2行め~172頁1行め「正月の酔っぱらい」に描写されています。
 プカルアを離れる場面は「Ⅶ 住めば都のプカルア」の5節め、204頁9行め~205頁4行め「今啼いたからすがもう笑う」の前後に描写されていますが、204頁17行め~205頁2行め、

‥‥。わたしは、一人で怒ってみたり、喜んでみたり、悲しんだり泣きもしたプカルア/【204】での生活に別れを告げた。三度訪れるにはプカルアは余りにも遠かった。海はつながっていて/も日本から一万キロ以上ある距離が夢をもたせてくれない。

とあって、プカルア滞在は1962年の「二カ月足らずの予備調査」と、1963年8月13日にタヒチ島を発って、8月末か9月初めに到着してから1964年に掛けての、本書に扱われている長期滞在の2度であったことが分かります。
 が、では1964年のいつまでプカルアにいたかが、どうもよく分からないのです。手懸りとしては219~222頁「あとがき」、220頁4行めの「わたしがプカルアを離れて三年余りたってしまった。」との記述があります。この「あとがき」は222頁13行めに「一九六七年七月」とあります。そうするとプカルアを離れたのは1964年の前半、1963~1964年の長期滞在も1年足らず、1962年の予備調査も含めて畑中氏のプカルア滞在は合計して、せいぜい1年間程度であったように思われます。2020年11月30日付(01)に引いた、カバー表紙折返しの紹介文に「単身この島に棲み込むこと一年半。」とあるのは少々長く取り過ぎているようです。ただ、畑中氏がはっきり書いていませんので、滞在期間の判断が難しいのは確かなのです。
 昨日見た青柳まちこ「100号記念 特別寄稿/私のオセアニア学ことはじめ」のような回想がないかと思って、昨年の11月11日に次の本を借りて見たのです。

 しかし、この本は標題にある通りニューギニアについて述べたもので、南太平洋のことは取り上げられていませんでした(細かく見ればどこかに記述があったかも知れませんが)。
 それはともかく、青柳氏の「私のオセアニア学ことはじめ その2」の、前回冒頭を抜いた「2.タヒチ」の最後、2頁30行め~3頁6行めに、

 こうして1962年2月1日、午後6時20分私の乗ったエア・フランス機は滑走を始めた。/目指す先はタヒチのパピエテ、飛行機は一路南下する。赤道を越えたのは何時か分からな/かったが、時間からすれば9時半頃には南半球に入ったことになるのだろう。大昔ハワイ/人が中央ポリネシアから北に向かった大航海とは逆方向である。
ほとんど揺れることもなく、高度を下げてきた機体が滑走路にぶつかる音がして飛行機/は定刻通り11時50分、パピエテに到着した。空港はホノルルと比べると如何にも暗く、/【2】湿気を含んだ生暖かい、ほんのりと甘い空気があたりに立ち込めていた。
入国の手続きが終わって建物の外に出ると、暗い中、畑中さんが立っているのが見えた。/短く髪を切っているため少女のようである。傍に立っている白髪の日本人は、畑中さんが/お世話になっている清野さんであると紹介された。二人はそれぞれティアレ・タヒチの白/い花のレイを私の首に掛けて下さった。私は今晩から清野一家の居候の畑中さんのそのま/た居候という身分となる。

とあって、青柳氏はハワイから移動、昭和37年(1962)2月1日深夜にタヒチ島に着き、畑中氏と清野老人の出迎えを受けております。すなわち青柳氏がタヒチに来たのは、北氏がタヒチを去って1ヶ月余り経った頃と云うことになります。
 清野家のことは、続く3頁7行め~4頁9行め「3.清野さん」に詳しく述べてありますが、これは別に、北杜夫『南太平洋ひるね旅』と比較しながら取り上げることとしましょう。4頁10行め~5頁8行め「4.モーレア島への旅」も同様今回は割愛、ここでは5頁9行め~6頁16行め「5.ナイ家に宿泊」の最後から、6頁17行め~7頁26行め「6.ニューカレドニア」の冒頭、6頁13~23行めを抜いて置きましょう。

 タヒチでの2週間の滞在を終えて出発する時、清野さんと畑中さんは空港に送りに来て/下さった。タヒチ流に抱き合い、清野さんの幾分伸びた髭に頬擦りすると、私は涙が止ま/らなくなって隠すのに骨を折った。畑中さんはその後、念願のツアモツ諸島に渡り、プカ/ルア島で調査を行ったことは、『南太平洋の環礁にて』(岩波新書653)に詳しい。
 
6.ニューカレドニア
 タヒチからニュージーランドへ行く前にニューカレドニアに立ち寄ることは、ホノルル/で、サウス・パシフィック・コミッションのジャック・バロー博士にお会いした時に決め/ていた。真夜中にパピエテ空港を出発したエア・フランスはフィジー経由で一路西に向か/う。2月18日の夜が明けて、下に大きな島が見えてきた。やっぱりメラネシアの島は大/きいななどと、妙な感心をしているうちに飛行機は高度を下げ、トンツータの飛行場に滑/らかに着陸した。


 そうすると、青柳氏が畑中氏と清野老人に見送られたタヒチを発ったのは2月17日と云うことになります。――4月20日付(06)に、畑中氏がプカルアに「二カ月足らず」滞在した「予備調査」の時期「一九六二年の初め」を、昭和37年(1962)の3月頃と推定したのは、当然、青柳氏を見送った後であるはずだからです。
 なお、国立国会図書館サーチ等で検索するに、畑中氏のフランス領ポリネシア滞在中、第五次「思想の科学」第8号(1962年11月)に「ポリネシアだより」を寄稿、岩波書店の「世界」には第212号(1963年8月)と第213号(1963年9月)に「西サモアの人と生活」上・下を寄稿しています。それから毎日新聞社 編『人間形成ある根性 続』(1964年・光風社)に「南の島に人類学研究 東京大学大学院学生 畑中幸子」と題して取材されています。出来れば遠からず、これらも見て置きたいと思っています。(以下続稿)