瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(10)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(4)
 北氏がタヒチ島で、日本人移民の紺野老人の引合せで畑中氏に初めて会ったときには、2020年10月31日付「赤いマント(293)」に見たように、大阪市立大学助教授のT氏が同行していました。その翌日、北氏は帰国の途に就く「T氏」にばったり会うのですが、以後は「見送りのH嬢」すなわち畑中氏と行動を共にすることが多くなり、T氏のことはすっかり霞んでしまうのです。
 このT氏が誰だか分からなくて、もちろん半年前にも検索してみたのですが、これだけの手懸りでは上手く尋ね当りませんでした。
 そこで本書に何か記述がないかと思ったのですが、北氏と会ったことを書いていないのと同様、T氏のことにも触れていないのです。
 その探索のヒントを与えてくれたのは、2020年10月26日付「赤いマント(288)」に触れた、新潮文庫2118『南太平洋ひるね旅』のAmazon詳細ページに「窓に!窓に!」というハンドルネームで2014年6月19日に投稿された「★★★★★ 今は消え去った風景」と云う長文のレビューの「おまけとして、副読本みたいなものを幾つかあげておきます。」との一節です。3点挙がるうち3点め、マーク・トウェイン『ハワイ通信』を除く2点が畑中氏関連なのです。「I氏」こと岩佐嘉親の『南太平洋の楽園』は挙がっておりません。

「南太平洋の環礁にて」畑中幸子著
文中で「女性人類学者のH嬢」と紹介されているのがこの人。北氏に語ったとおり、タヒチからさらに僻地のプカルア島へ赴いた体験が綴られています。旅行記と調査レポートの中間のような、不思議な味わいのある本です。ただし絶版。
 
「私のオセアニア学ことはじめ」青柳まちこ著
日本オセアニア学会のニュースレターに掲載された文章ですが、ネット上でも読むことができます。同氏がタヒチを訪れた際に畑中幸子さんにお世話になったこと、タヒチ在住の清野氏のこと、伴野商会のことなどにも触れられています。


 「私のオセアニア学ことはじめ」は立教大学名誉教授の青柳まちこ(1930生)が「日本オセアニア学会NEWSLETTER」に「100号記念 特別寄稿」と銘打って4回に亘って寄稿した回想です。
・「その1」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.100(2011年07月20日)1~8頁
・「その2」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.101(2011年12月20日)1~10頁
・「その3」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.102(2012年3月5日)1~10頁
・「その4」「日本オセアニア学会NEWSLETTER」No.103(2012年7月20日)1~10頁
 これらは「窓に!窓に!」氏(?)も述べている通り、「日本オセアニア学会」webサイト「日本オセアニア学会学術通信掲載論文」にて閲覧することが出来ます。
・青柳まちこ「100号記念 特別寄稿/私のオセアニア学ことはじめ その2」
 1頁4行め~2頁18行め「1.日本人による現地調査開始」に、1頁21~31行め、

 ポリネシアで行われた最初の調査は、京都大学探検部による1960年のトンガ諸島の調/査であろう。指導教官は大阪市立大学の薮内芳彦教授で、京大人文研の藤岡喜愛氏が副隊/長、大学院生・学生併せて8名がメンバーであった。後の国立民族学博物館石毛直道氏/も考古学担当の学生としてこれに参加していた。
 学生の組織である探検部がどのようにして資金集めをしたのか、よく分からないが、往/路は大阪港から伴野通商の貨物船に便乗し1ヶ月、帰路はフィジーのスヴァからマグロ船/に乗って1ヵ月半の航路で帰国したそうである。こうして交通費を浮かしたのであろう。/おそらく次に来るのが大阪市立大学医学部のポリネシア学術調査団ではないだろうか。/『民族学研究』(28-2:134)によれば、1961年8月から10月にかけて、自然人類学者/の島五郎、鈴木誠、寺門之隆諸氏がサモアニュージーランドで、マオリとモリオリの頭/骨の研究をされたとある。

とある、昭和36年(1961)8~10月の「大阪市立大学医学部のポリネシア学術調査団」が、4月19日付(05)に引用した本書「あとがき」の謝辞にある「この調査のきっかけを与えて下さった大阪市立大学医学部、」に間違いないでしょう。2020年11月2日付「赤いマント(295)」の初めの『南太平洋ひるね旅』からの引用に「はじめ六人のグループでサモアからまわってきたのだが、T氏は明日日本へ帰り、H嬢だけが一人残る」ことになった、とあるのに対応する記述が「私のオセアニア学ことはじめ その2」2頁19行め~3頁6行め「2.タヒチ」にあります。すなわちその冒頭、2頁20~23行めに、

 ところで、ハワイ大学での1学期を終えると、私は次の目的地ニュージーランドに向か/おうと考えていた。しかし先に述べた、大阪市立大学ポリネシア学術調査団の一員であっ/た東大大学院の畑中幸子氏が、ツアモツ調査のため、調査団の帰国後もタヒチに留まって/その準備をしていることを聞いていたので、先ず畑中さんを訪ねることにした。

とあります。すなわち『南太平洋ひるね旅』の「T氏」は寺門之隆(1924.9.16~1992.6.23)と云うことになります。
 上に「半年前」と書きましたが、半年放置してここに来て急に進展したのではなくて、青柳氏の文章には12月8日に目を通していて、すぐにでも記事にするべきだったのですけれども、こういうことにも踏ん切りやら時機やら気分やら何やらが影響するので、何となくそのままになっておりました。まぁ当ブログは万事がこの調子ですけれども。
 寺門氏については、楢崎修一郎(1958~2019.3.21)のブログ「人類学のススメ」の2012年08月15日「日本の人類学者27.寺門之隆[1924-1992]」にその略歴や業績が纏められています。寺門氏は北氏に会った当時満37歳、大阪市立大学医学部の解剖学教室の助教授(1958~1972)でした。(以下続稿)

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(09)

 前回引用した「金沢大学文学部論集―行動科学科篇―」第3号(昭和58年3月25日・金沢大学文学部)17~44頁、畑中幸子「東ツアモツ群島における文化の実態」について、もう少し見て置きましょう。――畑中氏は『南太平洋の環礁にて』以外に、南太平洋に関する著書を出していないようですが、調査は続けていて、「東ツアモツ群島における文化の実態」の冒頭、18頁1~3行め、

 筆者がプカルア島でおこなった社会人類学の調査(1961―64年)とレアオ島で1976年、/1980年に学際調査でおこなった “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” /(科学研究費海外学術調査)の成果をもとに、‥‥

とあり、また19頁32~34行め、

‥‥。1977/年(スミソニアン研究所緊急人類学調査委員会の援助による)、1979年(トヨタ財団の助/成金による)に筆者は単身レアオ島に戻り、‥‥

とあって、今度はレアオ島に昭和51年(1976)から昭和55年(1980)に掛けて6名の団員の学際調査が2回、それとは別に単身で2回の、合計4度、調査に出掛けているのです。この報告の中で気になったのは、2020年12月5日付(04)に触れた、レアオ島のハンセン氏病に関する記述で、少々意外な発展をします。
 これについては『南太平洋の環礁にて』にも、71~93頁「Ⅳ 時間が流れない/――荒涼たる世界――」の16節め、87頁11行め~88頁6行め「どこから入ったかおそろしい病気 」、87頁11~17行めには「遺跡」の近くにある「墓」につき、「約三十年前」に「重症であったためレアオの癩病院におくられることになっていた」が「船を待っている間に死んだ」と云う「二十歳の若い女性」について述べ、88頁1~6行め、

 一九二五年レアオで癩が集団発生したとき、レアオと通婚関係のあるプカルアにも癩が入っ/ていた。レアオ育ちのテプコルによると、彼女の子供のころは、鼻のくずれた人間や耳のとれ/た人など沢山みていたから癩病はこわくないという。一九三六年に再びレアオで集団的に発生、/病院が設けられたが、その頃プカルアでもかなりの重軽症の癩患者を出し、ミッションの命令/でレアオにおくられたという。半年に一回、スクーナーが来るか来ないかというくらい孤立し/ていたレアオに癩が発生したのは不思議なことであった。

と解説してありました。
 「東ツアモツ群島における文化の実態」では更に詳しく、25頁22行め~30頁「社会変化の過程」の節に、25頁23行め~26頁3行め、

 東ツアモツ群島はフランスの保護領になった後、間もなく政府が行政をカソリックミッ/ションに委託していた。1880年フランス植民地に併合され、初めて地方行政が施行された。/僅かなコプラ以外に何の資源もない遠隔の一環礁レアオは政府の関心をひくこともなかっ/た。レアオは孤立しながらも、ようやくその名がタヒチ島で知られるようになったのは、/1925年、1934年の二度にわたるハンセン氏病の流行である。最初の流行時には二村のうちの/一村が村ぐるみでタヒチ島のオロハラ癩療養所に送られ、大勢の者が帰島しなかった。この/グループに口碑伝承や系図をひそかに伝えていた古老が何人かいたという。1963年、筆者/が訪ねた時は病状のためコミュニケーションが不可能であった。二度目の流行ではレアオ/に療養所が建てられ、オロハラから一人の看護夫(infirmier)が派遣された。この人がピエ/ール・フィウ氏であった。レアオの療養所にはプカルアをはじめ近隣の島からも患者が送/られ、1934年には90名の患者がいた。レアオ療養所にはフランス政府だけでなく米国のモル/【25】モン協会に属する団体から救援物資が続けて船で送られてきた。この時レアオ住民は初め/て外国の食品―粉ミルク、砂糖、米、魚肉類の缶詰―に接した。これより外来の食糧への/強い慾求が生まれた。

とあります。そうするとレアオの2度めの流行は、1936年ではなく1934年のようです。1963年、と云うのは、4月20日付(06)に見たように、畑中氏が8月13日にコプラ・スクーナー「アラヌイ」でタヒチ島を出航するまで、と云うことになります。フィウ氏のことを「この人が」としているのは18頁13行め~20頁8行め「はじめに」に、20頁5~8行め、

‥‥。数少ない島のタフガ(=賢者)といわれているテアカ・タイレリュウら古老の外に、/1934~56年までレアオ島の癩療養所で働いていたタヒチ人看護夫*1ピエール・フィウ氏の協/力で、ある程度までレアオ島の伝統文化を堀り出すことができた。彼らがレアオ島に関す/る最後のインフォーマントであった。

と先に名前が持ち出されていたからです。
 なお、この辺りの経緯及びフィウ氏については、「国際関係学部紀要」第23号(1999年10月・中部大学国際関係学部)25~38頁、畑中幸子「東ポリネシアから消えた文化遺産一消えたチャントー」の「はじめに」にも、26頁7行め~27頁10行め、

 1962年,筆者は仏領ポリネシアのツアモツ群島プカルア環礁で偶然,古老たちが歌っているチ/ャントを聞いた。研究課題に追われていた筆者はチャントの重要性に対する認識が足りなかった。/【2】プカルア島の調査で島民の祖先が30マイル離れているレアオから移住してきたことがわかった。
 1976年から “東ツアモツ群島へのポリネシア人の移住に関する研究” 課題の下でレアオで学際/調査を始めることになった。 1976~80年の間,レアオで120余りのチャントを収集した。核実験の/ため,時にはレアオへの渡航が不可能になり,単身タヒチでレアオで録音したチャントの転写に/かかったこともあった。幸いなことに1934~56年までレアオのハンセン氏病療養所で働いていた/タヒチ人看護夫ピエール・フィウ氏を助手に作業を始めることができた。フィウはマンガレバ島/の調査の帰途,レアオに来たピーター・バックと三か月間生活を共にしていた。 1935年のことで/ある。ポリネシア研究に既に偉大なる業績を残していたマオリ族の血をうけたバックからフィウ/は,ポリネシア文化に関して薫陶をうけた。フィウはレアオの過去に興味を抱くようになり,当/時の古老の話を記憶に止めていた。レアオに関する最後のインフォーマントともいえる。

との説明があります。これら2つの論文で取り上げられている「レアオのチャント」についても、ちゃんと説明して置きたいところですが、長くなりますのでここにはその存在をメモするに止めましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「アンフィルミェ」