瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(6)

 それでは文献の方を当ってみたい。しかし、戦後の文献については数は少なくない(らしい)のだけれども、断片的な記述が拾えるようなものばかりで、問題の工場の変遷を綺麗に纏めて見せるところまでは至っていない。
 そこで、今回は戦前の状況について、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧出来た範囲で整理して見たい。
 まづ、割合纏まった記述のある本から見て置こう。
・『日本紙業名鑑』昭和十五年版(昭和十五年十月五日印刷・昭和十五年十月十日發行・定價五圓・紙硯社・二+六+口絵+二〇五+一四六+二九頁)
「第三部 紙 業 關 係 會 社」頁付は部ごとに打たれており第三部は二九頁、扉には頁付なく頁の勘定にも入っていない。一九頁下段4~15行め、

   八王子製紙株式會社
      八王子市外小宮町大和田
創 立 昭和三年
資本金 拂込濟 一五〇、〇〇〇
製 品 各種包装紙、海紙塵紙類
   代表取締  渡 井 重 源
   取 締 役  後 藤 庸 視
   同     名古路 角次郎
   同     城 内   毅
   監 査 役  後 藤 恒 太 郎
   同     平 岡 一 造
   相 談 役  淵 江 源 治


「第二部 紙業關係團體」一四六頁と若干の広告。その二〇頁7~8行め、

王子製紙株式會社    渡 井 重 源
 東京府八王市外小宮町大和田    八王子一一九五

「第一部 紙 業 名 鑑」の扉には小さく、

1 生  年    5 電    話
2 出 生 地    6 出 身 校 及 年
3 職  業    7 入社又ハ開業
4 住  所    8 趣    味

と記載項目の番号が纏めてある。二〇五頁と若干の広告。
 ここに2名、八王子製紙の役員が載っている。
 七二頁上段17~20行め、

 淵江源治 1明二一 2山口縣 /3八王子製紙(株)相談役 東部機械/製紙工組理事 4八王子市小門町六/一 5一一八三 7昭七 8俳句


 八九頁下段12~15行め、

 渡井重源 1明四二 2靜岡縣 /3八王子製紙(株)常務 4南多摩郡/小宮町大和田 5一一九五 6靜岡/縣富士中學 7昭一四 8野球


 渡井重源(1909生)については少しずつ調べている。八王子製紙には昭和14年(1939)入社、静岡県出身で静岡県立富士中学校(現・静岡県立富士高等学校)卒業の人物が満30歳かそこいらで、直ちに東京府下の会社の代表取締/常務になったのには、何か特別な事情がありそうである。
 労働省職業安定局 編集「職業安定広報」六月号/第12巻第6号(昭和35年5月20日 印刷・昭和35年6月1日 発行・定価 六〇円・雇用問題研究会・53頁)の28~36頁4段め4行め、座談会「炭鉱離職者の受入態勢を語る」に参加しており、28頁右下に囲みで「語る人々」として「佐藤浅治朗(佐藤電機製作所社長)/渡井 重源(岳南製紙工業株式会社社長)/三田政儀(三田工業株式会社社長)/茅本 直行(中山鋼業株式会社総務部長)/後藤  浩(日経連事務局長)/木村 四郎(雇用安定課長)/花沢 武夫(炭鉱離職者援護会理事)」と見えている。冒頭「5.13(工業クラブにて)」とあって昭和35年(1960)5月13日(金)に行われたことが分かる。渡井氏の発言も幾つか記録されているが、3節め、30頁2段め23行め「時間の観念と浪費が心配」は4段組の4段め20行めまで、全て渡井氏の発言である。冒頭を抜いて置こう。2段め24行め~3段め4行め、

 渡井 私の方は一五名なんですが、じつ/は非常に人が少なくて困っておったのです/けれども、それで安定所に対してなにか人/はないかということでお願いに上っておっ/たのであります。「炭鉱のこういう離職者/があるがどうだろう」というお話がありま/して、「それは一ぺん考えてみましよう」/というところへ、平の安定所から「こうい/【2段め】う人間があるがどうだろう」という話が係/の方からありまして、仕事の関係上非常に/若い者が多かったわけでありますが、その/人間が全部来まして、‥‥

とあって、福島県平市(現・いわき市)の職業安定所で紹介された15名を受け入れている。その場所であるが4段め1~3行めに「‥‥、一般/的に――私の方は八王子でございますが―/―どうも労働力が足りないのです。‥‥」とあって八王子工場なのである。
 少し戦後に脱線したが、八王子製紙から岳南製紙工業に掛けて20年以上、渡井重源と云う人物が経営者もしくは八王子工場の責任者であり、11月7日付(1)に見た昭和29年(1954)の慰霊碑建立も渡井氏が動いたのであろうこと、それが富士山本門寺47世貫主片山日幹に慰霊碑の揮毫を依頼することに繋がったのであろう。(以下続稿)

大和田刑場跡(5)

 現在のカレッジタウンには、Google の口コミを見ても特に大きな問題はないようだが、オープンからしばらくの間は、新聞沙汰になるような騒動の現場であった。詳しくは次の本を見れば判るはずである。未見。
・『不動産金融商品の神話と現実』

・『生きているカレッジタウン』
 大体の事情は、WiKipedia「カレッジタウン」項により諒解することが出来る。
 すなわち、平成4年(1992)11月20日に破産宣告を受けた運営会社ライベックスは、バブルに乗じた悪徳不動産会社だったらしい。学術研究機関 大判例法学研究所「大判例 with 政治団体オープンサイエンス」の「東京地方裁判所 平成9年(ワ)7678号ハ 判決」によれば、同社は昭和55年(1980)に城山産業株式会社として設立された、学生向け賃貸マンションの建築・販売を行っていた会社で、その後ホテル用物件の分譲を始めている。この判例ではビー・アンド・ビー渋谷(昭和60年4月オープン)ビー・アンド・ビー新宿(昭和62年2月10日オープン)ビー・アンド・ビー木場(昭和62年3月16日オープン)ホテル三條苑(昭和61年12月オープン)ホテルアーサー札幌(昭和63年8月オープン)プレジデントヒルズ上祖師谷(平成2年1月29日取得)ビー・アンド・ビー八王子(昭和58年10月オープン)とカレッジタウン八王子が取り上げられている。
 カレッジタウンについては全文を抜いて置こう。

(5) カレッジタウン八王子(物件の概要は別紙物件目録五記載のとおり)
カレッジタウン八王子は、八王子市大和田所在の大昭和紙工産業株式会社跡地を利用し、八王子にある各大学の学生用賃貸マンション及びホテルとして建設された施設である。
一万三二四二平方メートルの敷地に八九五室(うちホテル二七〇室)を有しており、ABCの三つのブロックに大別され、A棟は地上一〇階駐車場棟地下三階でマンション部分二九三室とホテル部分二七〇室、B棟は地上六階地下一階でスポーツ施設部分とマンション部分一八〇室、C棟は地上五階地下一階でマンション部分一五二室、その他セミナー施設などから成り立っている。
カレッジタウン八王子は、昭和六〇年一〇月ころに着工され、昭和六三年四月にオープンした。
カレッジタウン八王子の販売は、昭和六一年八月から行われ、マンション、ホテルの各室部分を、マンションは一口四五〇万円で九六五口、ホテルは一口五五〇万円で一四三四口に分けて、区分所有のさらに共有持分として小口化して販売された。


 このABC棟の内訳を見ると、A棟が現在のカレッジタウン1号棟と2号棟、B棟は八王子ドミトリー明秀、C棟が現在のカレッジタウン3号棟らしく思われるのだがどうだろう。
 それはともかく、この記述は頗る示唆に富む。『ふるさと八王子』に云う紙工工場は「大昭和紙工産業」であったこと、昭和59年(1984)10月31日国土地理院撮影の航空写真では更地だったが、その1年後の昭和60年(1985)10月頃に着工していること、そして昭和61年(1986)8月から販売が開始されているが、これがライベックスの「オーナーズシステム」なる不動産小口化商品の販売(詐欺商法)だったのである。昭和62年(1987)6月8日国土地理院撮影の航空写真に写っているのは建設中の姿で、ここに写っている同じような外見の八王子ドミトリー明秀も元々はカレッジタウンの一部(B棟)であったこと、そして同年11月25日竣工、昭和63年(1988)4月にオープンしていることが分かる。昭和9年(1934)の「八王子都市計畫地域指定圖」の書入れはカレッジタウン3号棟の辺りも「八王子製紙工場」の敷地になったらしく書いていたが、同時に建設されているところからしても、やはりそうであったらしい。
 なお、工場の名称だが、当初は「八王子製紙」で、戦中から戦後しばらくは「岳南製紙」八王子工場、更に「大昭和製紙」、最後に「大昭和紙工産業」と変わったようだ。
 大和田町5丁目在住の建築家秋山東一(1942.9生)のブログ「aki's STOCKTAKINGAugust 31, 2004「浅川・大和田橋際 /1943 秋」に、小西六写真工業の社員だった父・秋山喜世志(1911?~1999)撮影の写真を紹介して、「現在、[八王子ホテルニューグランド][カレッジタウン八王子]のある辺りです。八王子の心霊スポットとかで有名なようです。大昔、処刑場があったとか、物心ついた頃は、「岳南製紙」という製紙会社の工場がありました。」云々と説明している。
 この昭和18年(1943)秋の写真は大和田橋北詰から浅川の上流、大岳山などの遠景を写したもので、煙突などは写っていない。
 煙突の写った写真としては、「町自連だより」第52号(2021年10月15日・八王子市町会自治会連合会・8頁)4頁に載る「【十小・眞野博 先生撮影】 昭和29年 富士見町から見た大和田全景」と題するパノラマ写真がある。十小は昭和28年(1953)開校の八王子市立第十小学校。富士見町は大和田町6丁目の北の、丘陵地を切り開いた住宅地である。その中に煙を吐く高い煙突が写り、そこに吹出しで

岳南製紙工場の煙突。
後に大昭和製紙に変わ/り、現在はカレッジタウン/とホテルニューグランド/となっている。

とのキャプションを添えている。
 とにかく、工場を所有していた企業名が分かったところで、色々とまた調べようがあるのである。(以下続稿)