瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(8)

・『第十二版人事興信録』上(昭和十四年十月十五日印刷・昭和十四年十月二十日發行・人事興信所)サ八六の4段組の1段め37行め~2段め7行め「齋藤知一郎 〈齋藤商會、昭和製紙各(株)社長/靜岡縣在籍〉」項の最初に家族の主立った面々を列挙して、8~12行め、

 母  ち よ 慶應三、七生、靜岡、井出重次郎二女
 妻  わかよ 明二九、一生、靜岡、渡井辰五郎五女
 男  美 英 大五、四生、日本大學法學部在學
 男  茂 美 大七、八生、早大商學部在學
 女  うめ子 大一〇、二生、東京女子高等學園在學

とある。三男・四男・五男と弟3人は別記。この前後の版にも出ているであろうが八王子製紙を傘下に収めた頃の版を参照した。
 すなわち長男・了英は当初「美英」、次男・滋与史は「茂美」であったのを改名している。
 渡井重源はわかよ夫人の実家の出と云うことになるのであろう。叔母夫婦の会社に入り、その買収した八王子製紙に乗り込んで来た、と云った按配である。
 渡井辰五郎は恐らく重源の祖父で、佐野小一郎 編輯『靜岡縣家歴鑑』卷一(明治二十七年十二月廿七日印刷・同    年同 月三十日發行・非賣品・望月幸次郎・題字+口絵+序+判例+三+九十七丁)の七十四丁表3行め~裏6行めに、

〇渡井辰五郎氏 駿河富士郡富丘村外神ニ在リ其祖ハ平氏ヨリ出テ平氏滅/亡ノ後其族黨當地ニ來リ住セシト口碑ニ傳フル所ナリト雖𪜈年數ノ久シキ盛/衰興廢一ナラス隨テ古書舊記等モ徴スルニ由ナク加之明治十一年回禄ノ災ニ/罹リ家屋倉庫悉ク烏有ニ歸セシカハ其由緒經歴等ヲ詳知ス可カラス依テ近世/明瞭ナル分ノミヲ記スレハ寛政年中兵左衛門ナルモノアリ氏ハ文化十二年ヨ/リ文政二年ニ至ル時田村名主役ヲ勤ム後又天保三年再ヒ名主役トナル長男岩/松嗣ギ弘化二年外神村名主役ヲ襲フ後文久元年再ビ同役ニ撰ハル其年數前後/十有八年間之レヨリ前キ安政三年同郡北山村本門寺檀徒總代ニ撰バル嫡男嗣/ク是レ當代ナリ而シテ其履歴ヲ舉クレハ北山村本門寺檀徒總代タルヿ前代ノ/如ク明治十二年孔昭舍幹事トナリ十三年外神外壹ケ村學務委員拜命同年大宮/町外拾八ケ村道路會議員ニ當撰十四年吉原警察署大宮分署新築費ノ内ヘ金若/干ヲ獻シ其賞状ヲ受ケ十五年外神村宮原村戸長兼三十七學區學務委員拜命十/【七十四丁表】六年三月外神村外壹ケ村戸長トナリ準十七等拜命四月廿日十二等ニ進ム十七/年八月淀師大中里青木外神宮原五ケ村聯合會議員ニ當撰十八年外神村務係リ/トナル六年皇居炎上ノ際金若干ヲ獻シ十九年十二月其賞状ヲ賜ハル二十年一/月同郡大宮町外貳拾九ケ町村聯合町村會議員ニ當撰廿二年富丘村會議員ニ被/撰廿四年外神區長トナル又氏ガ北山村本門寺其他ヘ寄附セシ金額少カラス而/シテ氏ハ殖産興業ニ心ヲ注キ常ニ開墾ニ從事シ專ラ養蠶ニ勉勵スト云フ

とある江戸時代以来の名家で、北山本門寺の檀徒総代を代々務めていた。11月12日付(6)の最後に述べた臆断以上に、渡井家と北山本門寺との関係は深いので、慰霊碑も社長が自ら動いて建立した可能性が高いように思われるのである。
 ところで、八王子製紙の名称が消えたのは戦時中で、富士市史編纂委員会 編纂『吉原市史』下巻(昭和五十三年三月十五日 印刷・昭和五十三年三月二十日 発行・非売品・富士市・10+927頁)153頁6~7行め「‥‥昭和一七年五月一三日勅令によって公布さ/れた「企業整備令」」9~10行め「をもとにして「製紙工業整備令」も発効し、製紙パルプ業界の戦時体制へ/の再編成がすす」んだ様が、続いて載る一覧、153頁13行め~160頁13行め「戦時企業整備令による県下製紙工場の整備と其の変遷」に纏められている。社名|所在地|資本金|代表者|新工場名|旧名|所在地|戦後に於ける変遷、の8つの枠に整理されているが、その156頁18~20行めに、

岳南工業() |吉原町今泉一三六  |五三・五/万円|渡井 重源|富士工場 |岳南製紙 |岳南製紙(株)工場に復元/二四年六月 大昭和製紙岳南工場 二/七年六月吉原工場

とあり、21行めは5~7枠め「|八王子工場|八王子製紙|八王子|」とあって、岳南製紙と八王子製紙が統合されて岳南工業になり、戦後、岳南製紙に復したが岳南(吉原)工場は親会社(?)の大昭和製紙の工場となったらしく、どうやら八王子工場のみが岳南製紙を名乗って、社長の渡井氏も11月12日付(6)に引いた昭和35年(1960)5月の座談会にあったように「私の方は八王子でございますが」と、八王子を拠点に活動していたらしいのである。(以下続稿)

大和田刑場跡(7)

 昨日引いた昭和十五年版『日本紙業名鑑』の疑問点だけれども、翌年に出た次の本によって粗方解消出来た。
・『日本紙業大觀』昭和十六年十一月十五日印刷・昭和十六年十一月二十日發行・定價三十五圓・紙業日日新聞社・一七+二九+図版+三二〇+一三二+四〇〇+五六+一一三+五四+四九〇頁
 内訳を述べると長くなるので八王子製紙に関連する記述だけ拾って置こう。
「著名業者内容編」は独立した頁付で四〇〇頁(扉は頁に含まれていない)、その五一頁が「八 王 子 製 紙 株 式 會 社」の紹介で、上部に写真、上右に縦長の楕円形の「氏源重來渡表代」の顔写真。豊かな黒髪を七三分けにして丸眼鏡を掛けたやや肥えた人物である。その左に横長の工場の写真、黒く写っている長い煙突には白く「八王子製紙株式會社」の文字があって、天辺からから黒煙を吐いている。この煙突の分だけ、空が広く写っている。
 これら写真の下に文字による紹介がある。上部4字分にゴシック体の項目見出しが並び、その下、1字下げで明朝体で説明がある。1行めはゴシックで大きく、3字半下げて社名、ついで2~4行め、

     東京府南多摩郡小宮町大和田八二六     (電話 八王子一一九五番)
創  業 昭和六年八月
資 本 金 十五萬圓

と、この3行は行間が詰まっている。5~7行めの3行も行間を詰めて、

抄 紙 機 丸網七五吋二臺
製  品 包装紙、仙貨紙、塵紙
販 賣 店 博進社洋紙店、愛知洋紙店、岳南商事、三陽商事各社

とあり、次の8~12行めの5行は行間を空けて、

年 産 高 四百萬封度 金八十萬圓
パルプ工場 ポケツト式一臺(碎木機馬力量三百馬力)
竣  成 昭和十五年十萬圓を投じて設備
日  産 五噸(グラウンドパルプ)
工場敷地 五千坪(内建坪三千坪)

とある。次の項目は行間を詰めて13~14行めの2行、

役  員 代表取締役渡來重源、取締役城内毅、同名古路秀一、同後藤庸視、同齋藤/     美英、監査役後藤恒太郎、同平岡平一


 前年、昭和十五年版『日本紙業名鑑』と重なるところが多いが少し違っている。まづ「渡來重源」はやはり「渡井重源」が正しい。それから取締役の「名古路角次郎」が名古路秀一に、監査役の「平岡一造」が平岡平一と、それぞれ同姓の人物に代わっている。後者には手懸りがなかったが前者は本書中に記述があったので後述しよう。他に取締役が1人増えていることと相談役がなくなっていることが注意される。齋藤美英は「齊藤」が正しく、後述するように大昭和製紙(現・日本製紙)の創業者・齋藤知一郎(1889.3.18~1961.2.16)の長男で後に大昭和製紙名誉会長になる齊藤了英(1916.4.17~1996.3.30)である。
 15行めは前後行間を空けて「從 業 員 七十名」とあって、16~22行めは行間を詰めて「沿  革 」で以下のようにある。

同社は昭和六年の創立に係り、爾来淵江源治氏(八王子市會議員)が常務/取締役として鋭意經營の任に當り居たるも昭和十四年十二月に至り大昭和/製紙系の手に依つて株式大轉換(買收)が行はれ遂に實權は完全に大昭和/製紙系の手に歸し同時に重役を始め總てに根本的改革、刷新を斷行即ち大/昭和製紙を代表して渡來重源氏が代表取締役に就任以下夫れ%\變更、一/方、資本金は從來十萬圓の所十五萬圓に増資し内容擴充強化設備の改善を/圖つて面目を一新するに至つた。


 そして最後の「幹部閲歴 」に23~26行め、

代表取締役渡來重源氏は靜岡縣富士郡富丘村の産(明治四十二年生)大昭/和製紙會長齋藤知一郎氏の夫人の甥にして富士中學卒業直後大昭和製紙に/入社し昭和十四年十二月八王子製紙改變と同時に代表取締役に就任、爾来/經營の一線に活躍しつゝある新進有爲の材である。


 淵江氏は昭和十五年版『日本紙業名鑑』の段階では相談役に留まっていたものの、その後、退いたようだ。但し「著名業者内容編」二四三~二四四頁9行め「東 部 機 械 製 紙 工 業 組 合」には、二四三頁8行めに理事として「淵江 源治  (八王子製紙)」の名が見える。19行め~二四四頁9行め「昭和十六年上半期末の組合員」を列挙した中に二四四頁3行め「八王子製紙(渡井重源)」とある。渡井氏が若くして代表取締役になったのは大昭和製紙経営者の一族だったからなのである。
 なお「著名業者内容編」一三六~一三七頁1行め「三陽商店 城 内 毅 商 店」には一三六頁上右に楕円の城内氏の顔写真、6行め「取 引 先 大昭和製紙代理店、川崎製紙及八王子製紙會社製品一手販賣」とあり、15行め「幹部閲歴 代表者城内毅氏(明治三十二年生)は靜岡縣富士郡抽野村の出身/‥‥」とある。また「著名業者内容編」一八七~一八八頁5行め「第 一 商 事 有 限 會 社」の紹介には、一八七頁右上に楕円の「氏郎治角路古名故」の顔写真を掲出、一八八頁右上にはやはり楕円の顔写真「氏 市 秀 路 古 名」が掲出される。9~14行め「沿  革 」に「同店は明治四十年先代名古路角治郎氏(岐阜縣武藝郡上收村の産)の/創業に係り爾来非常に活躍し同店今日の基礎を築き上げた立志傳中の/人、都下原料界の重鎭たりしが昭和十四年八月死去に依り、養子名古/路秀市氏が之を繼承し‥‥」云々とあり、15行め以下「幹部閲歴 」に「代表取締役名古路秀市氏は岐阜縣武藝郡武藝村一色の産、(明治四十/年五月二日生)十六歳の時上京し‥‥」云々とある。
 それから「名 鑑 篇其二/全 國 機 械 製 紙 工 塲 名 鑑」の九頁下段16行めに「八 王 子 製 紙〈株式會社〉」とあって、17行め~一〇頁上段10行め、

所在地東京府南多摩郡小宮町大和田八二/  六(電話―八王子一一九五)
創 立
幹 部代表取締役―渡井重源、取締役―/【九】  後藤庸視、武田毅、名古路角治郎、齋藤美/  英、監査役―後藤恒太郎、平岡市三
 現勢一斑
 資本金―十五萬圓
 製 品―仙貨紙、紙紐原紙、塵紙、包装紙/   半紙、川表紙
 設 備―抄紙機丸網七五吋二臺
 年産高―一千萬封度、二五〇萬圓
 工 場―敷地五千坪、建坪四千坪
 從業員―八〇名

とある。どうも、人名など記載内容に、少々不安があるのだけれども。(以下続稿)