瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

Henry Schliemann “La Chine et le Japon au temps présent”(11)

 さて前回5月6日付(10)に、岡田章雄訳『エルギン卿遣日使節録(新異国叢書9)』(昭和43年11月10日初版発行・定価2600円・雄松堂書店・前付14+298+索引13頁*1)から59頁の硫黄ケ島 Ivogasima の記述を引用したのであったが、これは第三章の、章の頭に、章ごとに示されている細目では「薩摩の領主」という伝聞記事の中にあって、実見して書いたものではなかった。

 しかしながら、5月5日付(9)に紹介したフォーチュン『江戸と北京』の記述にもあるように、長崎を出港した船は「北に向って」関門海峡から瀬戸内海に入るか、「南のコースを取り、大隅海峡を通って太平洋に出るか」の2つのコースがあったので、後者を取れば、大隅海峡からフォーチュンの記述のように、或いはシュリーマンの記述のように、硫黄島が眺められたはずである。
 エルギン伯使節団の一行は、硫黄島を見ていないのであろうか。――エルギン伯使節団の一行のルートであるが、後年のフォーチュンと同じく、長崎を出港して南に向かい、大隅海峡から東へと向かっている。従って、航路から硫黄島が見えたはずなのだが、巻末にある「件名索引」を見ても、硫黄島は59頁しか挙がっていない。
 しかしながら本文を読んで行くと、実は硫黄島を見ていて、記述もしていることに気が付いた(61〜62頁)。〔 〕は凡例によれば「訳者が適当に補った割注」である*2

 八月五日の午後三時、われわれは碇をあげ、レトリビューション号 the Retribution と快走船及び砲艦リー号 Lee を同行して長崎港から出航した。ちょうどそのとき、大砲のいっせい発射が、外国船の視界に入ったことを告げた。伊王島を通過したとき、一隻の大型のオランダ船が南の方から、勇ましく風に逆らって進んで来るのを認めた。われわれはその当座は、数時間後に、あの立派な船の肋材を風下の岩の上にまき散らし、われわれを荒涼としたチチャコフ Chichakoff〔佐多岬〕の突端に追い込んで避難させるような暴風雨が発生しつつあるとは、ほとんど予想もしなかった。われわれは日のあるうちにファン・ディーメン海峡 Van Diemen's Straits〔大隅海峡〕を抜けるために、ゆるやかに帆を張って進み、つぎの朝には二つの円錐形をした火山性の峰の中間にいた〔開聞岳桜島〕。その二つの峰は見たところたがいによく似た形をして、高さは二千五百フィートあり、二十マイルほど隔たっていた。風がにわかに強まって暴風に変じた。このあまり勝手を知らない海のあらゆる方角に、岩礁島嶼が散在していた。気象が変って来たので、この激しい暴風を避けるため、どこか安全な港を探さなければならないことは明らかだった。


 この後、鹿児島湾 Bay of kagoshima に少し入ったところに安全な「碇泊地を得」て、1858年8月6日から7日の夜半まで「およそ三十六時間を過し」ている。(以下続稿)

*1:2020年5月16日追記】投稿当時貼付出来なかった書影(函)を、仮にここに補って置く。

*2:割書・改行位置は省略。