4月20日付(23)に「ユリイカ(総特集 少女マンガ)」の誤植を指摘した中に、1箇所、飯田氏の文章以外のものが紛れ込んでいました。下欄で『日出処の天使』という誤りは1箇所でないので纏めて示したのですが、ここについても少し詳しく見て置きましょう。
20〜31頁、中野収「少女漫画の構造分析」なのですが、当時法政大学社会学部教授だった社会学者中野収(1933.4.26〜2006.1.14)の文章も、文体に如何にもといった風情が漂っています。こういう書き方が流行っていたのでしょうか。
20頁9行めからの2段落めは「ぼくにとって、漫画・劇画、そして少女漫画は、例えば広告(表現)とともに、時代に潜む/〈何か〉を表現する数ある有力な媒体の、ひとつである。‥‥」と書き出されているのですが、14〜15行め「‥‥。漫画・劇画には、時にふれることはあったが、この一ヶ月前まで、少/女漫画を読まなかった。没交渉であった理由の第一は」時間の不足で、第二は女子学生たちの話で、21頁1行め「極めて特殊な世界であることの察し」がついたからなのです。
ではなんで読んだのかというと21頁4行め「編集部の依頼が」あったからで、6行め「編集部の推薦・指定の数冊(結局、数十冊)を読むことになっ」ています。
取り上げられている少女漫画は言及順に竹宮恵子『風と木の詩』、萩尾望都『ポーの一族』、竹宮恵子『地球へ…*1』、山岸凉子『日出処の天子』、青池保子『イブの息子たち』、倉多江美の作品集『一万十秒物語』短編『優子』『バンク〓パムプキン*2』、大島弓子『綿の国星』で、『風と木の詩』に最も多くの分量が割かれています。
『日出処の天子』への言及は1箇所だけです。23頁21行め〜24頁4行め、
『日出処の天子』(山岸凉子)は、聖徳太子を主人公にしている。記紀の叙述が〈神話〉である/かどうかに若干の疑問があるにしろ、この作品の骨格を成しているのは、やはり神話というし/かないだろう。例えば、『ユリシーズ』と比べてみても、神話の構造には忠実である。神話に/よったものは、今回ぼくが読んだもののなかでは、ほかに『イブの息子たち』(青池保子)など/があった。いずれも、神話は表現対の骨格構造を提供している。その上で、『日出処の天子』/では、聖徳太子は超能力の持主である(SF的)。蘇我毛人との関係は、同性愛的である(ロ/マン的・メルヘン的)。そして、仏教伝来時の思想的問題と氏族間の抗争も、ストーリーのひ/とつのスジになっている(歴史叙述的)。
これは、「*」を打って4つに分割されているこの文章の、2つめの章の冒頭、22頁19〜21行め、
作品の主題について語り、主人公の性格を論じ、かつはまた讃辞を書くことは、おそらくぼ/くの任ではないだろう。表現体の特性・様式・形式、総じてその表現性に若干の分析を加える/こと、それがこの一文の役割であるし、また、ぼく自身の関心でもある。
というのを一通り実行したものなのですが、他の作品についてはもう少し展開があります。……編集部に「指定」されて読んだのでしょうか。(以下続稿)