瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岸凉子「雨とコスモス」(1)

 昭和46年(1971)に「りぼん」に掲載されたまま1度も書籍に収録されていないのに、当時の読者からその衝撃が語られる幻の作品。作者にとっても画風を変えた最初の作品なので当時の反応などについて後年語ってはいますが、再録の意思は(今のところ)ないようです。
 ネット上にも断片的な情報はあるのですが、それらを寄せ集めてこういう話らしい、と示すよりは見に行った方が早いだろうと思いながらも、そのままになっていました。
 それを久し振りに思い出したのは、一昨日から引用している飯田氏の文章の「2」章に引用があったからです。55頁3〜6行め、

 憧憬に浸ろうとする少女にとって、どうして“醜さ”が必要であろうか? 必要ではないの/だ。
 しかし、いずれ少女は気づかなければならない。そうした“夢”は、いつまでたっても"夢"/のままなのだと。――それを彼女は、知らないふりで通せなかった。


 そして「現実を、知って尚知らないふりをする」登場人物として「『天人唐草』の響子のような例」を引いて、次のように続けます。55頁22行めから「2」章の最後(56頁10行め)まで。

 そして気づく疑問――“醜さ”は、本当に醜いのか?
アラベスク』連載前の号には『ネジの叫び』があった。これでもいい。が、その前の号『雨/とコスモス』――この方がもっといい。この作品のラストネームには次のようなナレーション/がある。
 
“ふとしたはずみに
 自分を理解してもらうチャンスを
 なくした人が 大ぜいいる”
 
 ――そうした視点だ。
 そうして山岸凉子は、表裏一体としての位置に立ち、『アラベスク』によって高みに飛ぶ。/“醜さ”は本当に醜いか?――さあどうだろう。でもまず“醜さ”がどんなものだか見てみな/いとね。見てみないと何もわからないよ。


 最後の喋ってるような文体は何かを踏まえているのでしょうか。
 それはともかく、差当りこれを導入として提示して置きます。単行本未収録作品を読みに行こうとするようではいよいよ病膏肓に入るですが、どんなものだか見てみないとね。見てみないと何もわからないよ。(以下続稿)