瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎『小笛事件』(7)

 山本禾太郎に関しては、8月31日付(1)にも述べたように山下武「『小笛事件』の謎」から入ったのだけれども、肝腎の『小笛事件』を読む余裕がないのです。それというのも細川涼一「小笛事件と山本禾太郎」を読んだ上では『小笛事件』だけではなく、10月18日付「試行錯誤と訂正」に言及した鈴木常吉『本當にあつた事 續篇』も併せて読む必要があります。この本は古本でも入手困難、一般の図書館にはもちろん所蔵なく、国会図書館等で複写を取らないと読む*1のもその上の比較検討も不可能なのですが、そこまで本格的に動く踏ん切りが付かないのです。
 そんなことで躊躇して、山下氏の記述を基本として、それこそ瑣事に突っ込みを入れているうちに、先月下旬、Wikipediaに「小笛事件」が立項されました。非常に詳細な記事で、いよいよ資料を揃えて検討を試みる意欲を失ったのですが、現在までのところWikipediaの記事では、9月10日付(3)に示した、山下氏が引用している甲賀三郎の「小笛が果して自殺を他殺と仮装して、検察当局の眼を欺き、死後被告に復讐する心算であったかないかは、最も興味のある点であると思ふ。この点について、私は然らずといふ意見を持つ」と云う視点に触れていません。この甲賀氏の意見は、9月12日付(5)及び9月13日付(6)のように解釈すれば良いと考えています。
 私はこの点、警察・検察が「他殺を自殺と仮装」との見解に拘泥したことが、弁護士によって「自殺を他殺と仮装」という逆転の一手に利用されている点に注意したいのです。これは法廷戦術というべきでしょう。法廷戦術ではなく真剣にこう考えていたのだとすれば思慮が足りません。分かっていて利用したのだろうと思うのです。
 しかし、山下氏を始め、未だにこの「自殺を他殺と仮装」という刷込みに絡められている人が少なくないのです。そこで今後は、事件全体を対象にするのは私には荷が重過ぎます(ブログ名とも齟齬します)ので、しばらくこの事件に関して、私がおかしいと思う記述を拾って行くことにします。
・上野正彦『死体は語る』
・単行本時事通信社

死体は語る

死体は語る

・一九八九年九月二十日発行
・二〇〇一年九月一〇日八十五刷・定価1262円*2
・文春文庫
死体は語る (文春文庫)

死体は語る (文春文庫)

・2001年10月10日第1刷(243頁)
・2008年7月15日第9刷 定価495円*3
・2010年2月15日第11刷 定価495円
 単行本200〜202頁・文庫版223〜225頁「異なる結論」で小笛事件*4を取り上げ、その最後を単行本202頁5〜6行め(改行位置「/」)文庫版225頁7〜9行め(改行位置「|」)、

 失恋した小笛は、男に殺されたように見せかけ、狂言自殺をしたのであった。鑑定結|果が人の運/命を大きく左右することを思うと、日々の研鑽をないがしろにすることはで|きない。*5

と纏めているのですが、くどいようですが小笛の死に方は「殺されたように見せかけ」ていないでしょう。しつこいようですが、縊死をそのように「見せかけ」ながら決行出来るのでしょうか。擬装工作の1つとされた小笛の遺書にも「ワタシワサキニシニマスヨ」と書いてあって、その通りに自殺しただけなのです。被告が全くの無実として、小笛に無辜の被告を巻き込む意図があったとすれば、それは小笛の遺書にも書かれている小笛の養女「チトセワアナタガコロスノデスネ」に限定されるはずです。――それから「狂言自殺」という言葉の意味を、取り違えています。(以下続稿)

*1:国会図書館等で端末にかじりついて読むという手もありますが、その余裕もありません。ちなみに常司鈴太郎『本當にあつた事』は古本で入手可能。

*2:未見。Google Booksに一部が示される八十五刷に拠る。従って頁数も未確認。

*3:未見。Amazon詳細ページのなか見!検索に拠る。

*4:但し「こぶえ」と振仮名。

*5:ルビ「けんさん」。