瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(24)結婚

 昨日の続き。
 さて、主人公山木東太郎に、山本禾太郎こと本名山本種太郎の体験した「事実」が色濃く投影されているとするならば、本作は不明瞭な山本氏の前半生を窺わせる資料として、もちろん「小説」ですから全てを全くの「事実」と単純に捉える訳には行きませんが、ある程度の活用は出来るはずです。
 そこで、まず、10月29日付(21)本文⑪に引いた日記の10日めの冒頭、

 おふくさんと亀山で別れてから二年半になる。自分が大圓氏の一座を辞め、幕内ものの足を洗ってから一年半だ。
 金曜の朝〃吉村ふく〃と署名した封書を受取ったとき驚きもしたが、またなつかしくもあった。すぐ会いに行きたいとは思ったが、今では妻をもつ月給取りだ、そう自由にもならない。

との記述に注目しました。山本氏は藝界から足を洗った頃に身を固めたようです。すなわち、山本氏の結婚の時期が、この小説の時間軸を整理する際の基準となると思われるのです。
 そう思って山本氏の著述を眺めると、論創ミステリ叢書14『山本禾太郎探偵小説選Ⅰ』319〜369頁「評論・随筆篇」の325〜334頁「妻の災難」が、「兵電の板宿停留所から男の足で急いでも十五分はかか*1」る「文化住宅」に「結婚してまだ間のなかった妻」の「道子」と「引っ越して来」た「当時」の回想であることに気付きました。
 引っ越してからまだそんなに経っていないと思われる「六月初め頃の或る夜のこと」、「仕事の都合で帰りが夜の十一時頃にな」った「私」が「電車から降りて急ぎ足で田圃道にかかると」妙な男に「尾け」られていることに気付きます。「不便や淋しさ」を理由にした「妻の反対」を「退けて引っ越した」手前、妻には「黙ってい」ることにしたのですが、329頁1〜3行め、

 その翌朝新聞を見ると、
  殺人狂入江三郎精神病院を脱走す。
 という記事が出ていました。

ということになるのです。以下「神戸市」を「全く火の消えたような淋しさ」にしたこの騒ぎに山本家も翻弄されることになるのですが、この事件については別に改めて、当時の新聞記事と照合して置きたいと思っています。
 それはともかく、横井司「解題」にはこの随筆について、386頁15〜16行め、

 「妻の災難」は、『新青年』一九二六年一〇月号(七巻一二号)に発表された。
 まるで小説のような展開だが、初出誌の目次では随筆という扱いになっている。

と述べるのみで、この入江三郎については何ともしていません。この号は「十月特別増大探偵と随筆選集」でした。
 これがいつの事件かと云うに、5月30日付「河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(2)」に活用した、「渋沢社史データベース」の「(株)神戸新聞社『神戸新聞五十五年史』(1953.07)」の年表が、ここでも役に立ちました。
・大正5年(1916)条
「11月10日|入江三郎の二美人殺害を報じた。」
「11月15日|殺人鬼入江三郎発見者に銀時計、逮捕者に金時計を贈る懸賞を発表した。」
11月31日|入江三郎大阪八尾署に逮捕され発見者福田文太郎、逮捕者石津巡査に賞を贈った。」
大正6年(1917)条
「7月10日|脱走中の殺人鬼入江三郎の逮捕を報じた。」
と見えています。そうすると「妻の災難」は大正6年(1917)6月のことになります。山本氏の結婚は遅くても大正6年(1917)5月までのことになりましょう。大正5年(1916)頃と見て置くのが無難でしょうか*2
 すなわち、大正5年(1916)には幕内(藝能界)から足を洗っていたことになるのです。(以下続稿)

*1:ルビ「ひようでん・いたやど」。兵電は兵庫電気軌道。現在の山陽電気鉄道板宿駅兵庫県神戸市須磨区)。

*2:2016年3月5日追記】結婚時期の推定は今のところ動かす必要を認めませんが、入江三郎事件に関する「妻の災難」の記述は、相当事実と異なっています。詳細は2016年3月4日付「山本禾太郎「妻の災難」(1)」より、断続的になりますが説明して行くつもりです。