瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(25)童貞

 昨日の続き。
 作中には時期を窺わせる記述は殆どありません。時事も全く扱われていません。
 10月20日付(12)本文②、日記の1日めは、冒頭に登場する紳士風の男の台詞、「おかみ、僕はネ、白い絽の羽織に黒い紋をつけて、夏の式服にしていたんだが、昨夜高砂座へいったら浪花節の京山大圓が同じ羽織を着ている。あんな下等なヤツが着ているのを見て、急にイヤになったから黒に染めようと思っているんだ」からして、夏です。
 その日の夜、初めて女主人公の話を聞きます。

 大部屋へ入って見ると、またあの噂をしている。それは三枚目を語っている圓八君の細君が、近々この一座に加入してくるという噂だ。自分は座員中での新参で圓八君の細君を知らないが、座員の人達は、性質が粗暴で、その上おそろしい酒癖をもち、四十を越してなお露払いに等しい三枚目読みの圓八君と、年齢が二十以上も若くて美しく、そして優しい細君とを比べてよほど興味をもっているらしく、以前夫婦がこの一座で働いていた当時の挿話――それも主として圓八君が細君を虐める話――を中心に、いろいろな噂を興味あり気に語りあっていた。


 この女主人公の年齢は10月21日付(13)本文③、日記の2日めに、次のように見えています。

「これ、圓八さんのヨメさんだっせ」
 と、弟子の圓一が化粧棚に放りだしてあった写真をもって来て見せた。
 こころもち八の字を描いた美しい眉、パッチリと開いた二重瞼の目、肉づきの豊かな鼻、すこし大きいかと思われる口をやや左に歪めた、それは笑い顔だったが、なにかしら淋しそうな笑顔だった。髪をおさげにして両方の肩に垂らし、紋付のきものに袴を胸高につけている。舞台写真だろう。裏をかえして見ると〃櫻中軒花奴、十九歳〃と書いてある。


 写真がいつ撮影されたのか、この年なのか前年なのか確定は出来ませんけれども、この年に数えで十九歳と仮定して置きましょう。
 その、この年が何年なのかですけれども、作中には時事が殆ど扱われていないので、10月23日付(15)本文⑤に「二十四にもなって、しかも幕内の飯を食っていながら、まだ童貞でいるという間抜けた自分だ」とあるのを山本氏の年齢に当て嵌めて、山本氏は明治22年(1889)2月28日生ですから、数えで二十四歳は明治45年=大正元年(1912)ということになります。この日記の4日めは冒頭に「早いものだ。おふくさんが一座に加わってから三ヶ月になる。」とありますから、日記の1日めは同じ年の「夏」で、4日めは「秋」か「初冬」辺りのこととなりましょう。すなわち、女主人公は明治27年(1894)生という見当になります。
 女主人公のことを主人公は「新参」なので知らなかったことになっていますから、主人公はこの一座には、同じ年の「春」か前年に加入したとの見当が付けられそうです。
 山本氏が藝界から足を洗ったのが大正5年(1916)と仮定すると、10月19日付(11)本文①*1に引いた「略歴」に「ネタを書いたり直したり」の「一座の食客」であったのは足掛け「七年」で明治43年(1910)から、という見当になります。同じ「略歴」にある、山本氏が「弟子入り」した「さる大家」は、京山大圓のモデルとは違う誰か、ということになります。
 もちろん、以上は飽くまでも見当であって、確実なものではありません。山本氏が「食客」であった「七年」の時期は若干遡るかも知れないし、女主人公のモデルと出会った時期はむしろ引き下げるべきかも知れません。――そんなことを考えていたところ、私の最初に引いた筋の傍証となる資料を見付けることが出来たのです。(以下続稿)

*1:【2023年10月18日追記】誤って2015年10月23日付(15)にリンクしてあったのを訂正した。