瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松谷みよ子民話研究室「現代民話考」(02)

 松谷みよ子民話研究室及び『現代民話考』の成立事情については断片的な記述を拾って見るばかりでしたが、その後、これまでその(主として物理的な)重さから敬遠していた『松谷みよ子の本』を見てみますと、やはりかなり詳しく、その辺りの事情が書いてあったのでした。
 まづ、短く纏まった記述を抜いて置きましょう。
・『松谷みよ子の本 第8巻 昔話・全1冊一九九五年六月二十五日・第一刷発行・講談社・777頁・上製本(20.0×14.8cm)

 756~762頁、松谷みよ子「あとがき」の最後の段落、762頁8~16行め、

 もう一つ、『松谷みよ子の本』に入らない民話の仕事がある。『現代民話考』で、目下十一巻目の刊行に向/かっており、十二巻の刊行完結もみえてきた。この三つの仕事は、一九七七年開設された「松谷みよ子民話/研究室」があったればこその小さな字での仕事であった。東京都練馬区東 大 泉 六-八-二十八番地は、一九/六七年、離婚のため葛飾区金町*1から越してきた。築三年の建売住宅だった。三年後一分ほど離れた地に家を/建て、友人に売却したが七七年買い戻した。そのとき、突然、民話研究室にしようと思った。一室を日本民/話の会に提供、十八年を経た。思うてもいなかったのに、この研究室から、さきに述べた資料集関係の三つ/の仕事が生まれたのである。よき室員の力があったればこそであった。そして、先達からの細かい字の仕事/が根底にあってこそ、民話の仕事をしているといえるのではないかという言外の示唆に、多少なりとおこた/えできたろうかと思ってみるのである。


 住所の辺りが組み直したように見えますが、これはルビ「ねりま く ひがしおおいみず」を振るため、校正途次に字間を空けたためかも知れません。しかし住居表示ですから「番地」ではなく「六丁目八番二十八号」となるはずです。
 「三つの仕事」のあと2つは、この直前の記述から岩崎としゑの語りを纏めた『女川・雄勝の民話』と、講談社文庫『昔話十二か月』十二巻であることが分かります。それから「小さな字での仕事」とは、757頁8~10行め、ある民俗学の「老先生からは、「我々学者は細かい字の仕事をしてむくわれることは少ないのに、松谷さんはこんな/大きな字でもうけている。」とお叱*2りを受けた。‥‥。私は叱られ/ても仕方がないと思い、いつか細かい字の仕事をしようと肝に銘じた。‥‥」とあることに由来しています。再話ではない「資料集関係の三つの仕事」と云う訳です。
 この辺りのことは挟み込みの「松谷みよ子の本 ➑ 月報」(1995年6月・講談社・8頁・B6判折本)1~3頁(頁付なし)水谷章三「松谷さんと「日本民話の会」」にも記述があります。
 さらに、翌年2月に刊行された松谷みよ子の本 第7巻 小説・評論・全1冊には、「第Ⅱ部:評論」の後半に「現代民話考」の「テーマ考察の「前文」と「あとがき」」を収録したところから、750~756頁、松谷みよ子「あとがき」の最後 1/3 ほどが「現代民話考」について回想したものになっております。
 754頁12行め~755頁10行め、

『現代民話考』は一九五二年、木下順二さんが岩波書店より発行されている雑誌「文学」の五月号に書かれ/た「民話管見」のなかの現代民話のくだりに深い感動を覚えたことに端を発する。当時私は二十代であった/が、現代民話を生涯追いかけてみたいと思った。しかし私一人の力では、これこそ現代民話、と思う話にぶ/つかっても、集めることなどとてもできなかった、吉沢和夫さんがあるとき「現代民話には普遍性が必要で/す。」と洩らされ、あっ、と思った。ならば尚のこと、集成が必要ではなかろうかと。*3
 こうした思いが自然にころがり出したのが自宅から三十秒ほどはなれた場所に「松谷みよ子民話研究室」/を置いたことにはじまる。東京都練馬区東大泉二六四番地(現表示六ノ八ノ二八)は一九六七年、離婚によっ/【754】て葛飾区金町の太郎座と同じ式地に会った家を出たとき、引っ越してきた家である。数年後現在の家を建/て、二六四番地は『りえ覚書』の雨宮さんに売却、一九七七年、彼女が引っ越したあとを引きとり研究室と/した。民話関係の本を移し森田千恵子さん、石崎敬子さんの二人が勤務。また階下の一室を「日本民話の/会」(当時、民話の研究会)の事務局に提供した。ふしぎなもので、何ということなく、私ごときが研究室な/どと烏滸がましいと思いながら開いた研究室であったが、劇団の稽古場と同じで、私どもの仕事にとって一*4/つの場の存在は大きかったと思う。
 翌年には日本民話の会の機関誌として雑誌「民話の手帖」が発刊され、この雑誌に拠って「現代民話考」/の仕事が発足した。石崎さん、森田さんが結婚や出産のため引いてからは納所とい子さんが私と二人三脚で/この仕事にかかわっている。現代民話考は資料を集めることからはじまって、聞書、テープおこし、原稿/化、分類と、時間と人手と根気の要る仕事である。ことに立風書房から単行本を上梓するときは、‥‥*5


 長くなるので刊行時のことは割愛して、756頁2~8行めを抜いて置きましょう。

 話は戻るが、研究室には古い太郎座の仲間の平岡崇子さんもある時期参加している。研究室の仕事のため/大泉へ引っ越してくることになり、大泉の不動産屋さんに行った。物件を案内して貰いながら「小父さん、/軍隊に行った?」と話しかけ、なんとそのひとが加害者の戦争を語るグループの人だったことが判った。じ/かにうかがうその話しは息を呑む凄まじさで、七三一部隊の越定男さんの勇気ある証言と共に『現代民話考・/軍隊』の白眉となった。このほか津田塾大学の卒論で「モモちゃん」を採り上げて以来、本と人形の家や研/究室の仕事を続けている新美直子さん、皿木泰子さんなど、多くの研究員の力で、『現代民話考』やこの/『松谷みよ子の本』も刊行が続いているのである。*6


 平岡(中岡)崇子と云う人については、2011年1月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(007)」以来注意していたのですけれども、ここに「古い太郎座の仲間」とあるので、先月、5月4日付「日本の民話『紀伊の民話』(01)」及び5月5日付「日本の民話『紀伊の民話』(02)」にて参照した松谷みよ子・曽根喜一・水谷章三・久保進 編『戦後人形劇史の証言――太郎座の記録――の「太郎座に参加した人々」を改めて眺めて見たのですが、やはり「平岡崇子」の名はありません。あれば2021年11月20日付「日本の民話1『信濃の民話』(14)」の時点で気付いて、過去記事に註記していたでしょう。どうやらこれは「太郎座に参加した人々」309頁下段19行めに見える「平岡登志子(37―40) (演)」と混同してしまったように思われるのですが、しかし「平岡(中岡)崇子」も紙芝居をしたり、太郎座の演目だった人形劇「食べられた山姥」を上演したり、と云った活動をしておりまして、ここは記憶違いではなく同一人物が改名した可能性も、考えられなくはありません。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 ところで、前回書いたような程にまで「現代民話考」に入れ込んでいたのであれば、「日本民話の会」の会員になるなりすれば良さそうなものだと今更ながら自分でも思うのですが、当時全くその発想がありませんでした。私が『現代民話考』を知ったのは、高校1年生の昭和62年(1987)、学校の帰りに小一時間歩いて私の在住当時1館しかなかった市立図書館に足を延ばし、その書棚で『現代民話考[第二期]Ⅱ 学校』を見て、こんな話は私の中学に幾らもあって「現代民話考」の話例よりもよく出来ているものもあるのに、私の中学の在校生・卒業生から報告する人間がいなかったばかりに掲載の機会を逸してしまったことを残念に思ったのがその切っ掛けでした。私は中3の昭和61年(1986)夏の「課題学習」と云う自由研究的な夏休みの宿題として『人から聞いたはなし』と云う、小6の昭和58年(1983)以来、祖父や父・兄・従兄や友人の祖母などから聞書した怪異談を纏めた稿本を作成していたのですが、その中に、同級生や部活の同輩後輩など20人ほどから聞書した学校の怪談が含まれていました。それを高1の終りに、高校になってからの聞書と合せて今度は「学校の怪談」だけを纏め、松谷氏に送り付けたのが松谷氏に連絡を取った初めでした。そのとき、或いは『狐をめぐる世間話』恵投時にでも「日本民話の会」に勧誘されておれば、そのまま機嫌良く(?)入会していたかも知れません。
 しかし私は、松谷氏の人物や作品に、これまでそれほど興味を持っていませんでした。飽くまでも話に対する興味であって、「現代民話考」の時期及び場所の修正を申し出たのも、私がこれらの話を利用しようと思ったときに曖昧では困ると思って、どうせなら広く裨益する形で実行出来ればと思ったまでで、それ以上ではありませんでした。ですから断られた段階で、そちらからはいよいよ遠ざかるような按配になりましたし、やはり私は再話のような、民話を元にした児童読物化に抵抗があるので、そう云う活動に熱心な「日本民話の会」に参加したかどうか。元々私は(民俗学的)解釈が苦手で、そういう会に入っても長続きしなかったろうと思います。いえ、だからこそ考証癖を発揮すれば、あっちの方の人は想像や思想を膨らませることは得意らしいけれども細かい確認は不得手らしいので、却って大いに役立つだろうと考えたのですけれども。
 そう云えば、高校そして学部生当時、雑誌「民話の手帖」を探して読もうとした記憶がありません。そもそも私には雑誌を読む習慣がなく、小学生の頃、学研の「学習と科学」を買い、また低学年の頃には「コロコロコミック」なども買いましたが、その後は雑誌を買うことも読むこともなく、山岳部の部室に「山と溪谷」と「岳人」があれば眺めた程度で、連載を心待ちにするとか云う心境になったことはついぞありませんでした。本屋に行っても雑誌の棚は見ませんでした。どうせ買わないので、立読みするだけになるのも悪いと思って初めから近寄らなかったのです。東京に出て来てから、区立図書館ごとに雑誌コーナーがあって、初めて週刊誌に一通り目を通すようになりました。元手要らずでかつ、気兼ねがなかったからです。そんな訳で週刊誌などを買ったことは結局ないように思います。今や書店にも滅多に足を踏み入れません。いえ、本屋が本当に少なくなりました。――それはともかく、高校時代であれば、そこまで渋チンでなかったので、高校の図書館や市立図書館の何処かが購読しておれば「民話の手帖」の存在を意識し、やはりその情報量に魅力を感じて「日本民話の会」入会を考えたかも知れません。しかし大学以降の私は、継続的に金の掛かることを極力避けて、まぁそのお陰で低収入でもそれを大して不満に思うことなくやっておられるのだと思っております。もちろん、働かずに過ごせるだけの金があるに越したことはありませんが。(以下続稿)

*1:ルビ「かつしかく かなまち」。

*2:ルビ「しか」。

*3:この行のルビ「も ・なお」。

*4:この行のルビ「お こ ・けいこ ば 」。

*5:ルビ「てちよう・よ /のうしよ//」・

*6:ルビ「ひらおかたかこ /もら・お じ /わか/の ・すさ/はくび //」。