瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(26)

・「七月二十五日。」条と結末
 438頁12行め~440頁2行め、7日め「七月二十五日。」条、これが最後の日付である。前半、438頁13行めから439頁6行めまでを抜いて置こう。

 いよいよ七日目だ。却ってもう飢を感じない。手も足も水ぶくれになって腫れ上ってくる。しまは、/呼吸するのも大儀だ。本をならべ立てようとあせったが、もうその気力もない。ハンド・バッグから/懐中鏡をとり出してもう一度と自分の顔を覗く。ぞっとするような青さ、眼瞼*1は却ってますます腫れ/上って来て居る。しかし顎がこけて、油気ない頭髪がばさばさと、毛ばだって居る。パフを出しては/たき、ルージュを唇につける。――思わず涙が頰を伝る……もう最後が近い。死ぬまで書かねばなら【438】ない……。
『今日はもう七日目です。指折り数えて七月の二十五日だとわかりました。蟬がないて居るのが、遠/い国から聞えてくるようです。聴力も確に鈍りました。……』
 もう書く元気がない。椅子に埋れて睡る。すしの夢、しるこの夢……夢の中には不思議に渋谷の顔/が出ない。出るものはたべものばかりである。
 目醒めて又ペンを持つ。


 体調の確認と食物の夢は5日め以来の、そして化粧は6日めの繰り返しである。
 十分に時間があったにも関わらず「悲壮美」の構築は結局為されないまま終わってしまった。
 「飢を感じない」けれども夢に見るのは「たべものばかり」で、「渋谷の顔」を夢に見ないのに、遺書には渋谷に対する思いを綿々と、いや、渋谷にだけ伝わるように怨念を込めて書き綴っている。この日の後半、439頁10行めから440頁2行めがその文面(14行)だが、最後の4行は「渋谷さん、」を、最後は書き方を変えながら21回も連呼するのである。
 ここで1行分空けて、440頁3~8行め、数日後(?)の主人公の様子を客観的に描写する。5~6行め「……原稿用紙に向った手にはペンが堅く握られ、復讐にみちみちた虚ろの愛情の文字が羅列し続けられて居る。‥‥」とあるが、前後の描写から既に死亡していて、しかしペンを握った様子に意志が感じられると云う意味で「し続けられて居る」としているのだろう。もし、遺書が本作に引用(?)してある分で(ほぼ)全てだとすると、主人公は渋谷の名を書き続けながら力尽き、ペンだけを握り締めつつ、やがて息絶えたのであろう。
 それと云うのも、前日の6日め「七月二十四日。」条の最後の遺書の引用、438頁3~6行め、

『わたし、間もなく死ぬでしょう。いい想い出をしっかり抱きしめて、事切れることでしょう。死ッ/て案外楽そうよ。わたし、死ぬときはきっと睡るように行って了うのね。そのときあなたのお名をお/呼びするわ。――聞えて。聞えるわ。いつか聞えるわ。このおもい聞えないものですか。そうでしょ/う。……』

の後半に(前半ではなく)対応しているからである。
 そして440頁9~15行め、2016年10月9日付(04)の最後に述べた、題名の由来、太郎が「墓だよ」と主張する場面があって、屍体発見の波紋などは描かれないまま終わっている。(以下続稿)

*1:ルビ「マブタ」。