瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

三軒茶屋の思ひ出(1)

 大学2年まで、私は最寄り駅でもないのに三軒茶屋から通学していた。
 当時は暇だったので、辺りを随分歩き回ったものだったが、とにかく歩いているばかりで店や施設には、駅前のハナマサやライフ、立食い蕎麦のかしわやに入るくらいだった。二十歳を過ぎた頃、牛乳を飲むとおならが出て苦しくて堪らなくなって以来私は牛乳を飲まなくなったのだが(今、たまに料理で使った牛乳の余りを飲んで、別に苦しい思いもしないが、飲まないのが習慣になってしまったのである)当時は牛乳をがぶ飲みしていたので、三軒茶屋から牛乳1リットルパックを4本抱えて延々歩いて家まで帰ったものだった。――高架下の自転車置き場を定期で使っていた記憶もあるが、徒歩が先か自転車が先だったか、記憶していない*1

 私は釣りをしないので、釣り堀の前を通ることはあっても入らなかった。近くに大学の友人でもいたらもう少し立ち寄る場所もあったろうが、三軒茶屋の住人も、通学時に三軒茶屋を通る路線を利用している者もいなかったので、三軒茶屋での私はいつも1人だった。2014年3月24日付「楠勝平『おせん』(1)」に述べたように、高校卒業後上京して浪人していたから、地元の友人と云うものがなかった。――釣り堀は私が三軒茶屋に全く行かなくなってからしばらくして、TVの散歩番組で取り上げられて、入ったことがないのに何だか懐かしい気分になったものだが、今検索するに、複数のサイトに2009年10月25日に閉店した旨が見えていた。
 当時、私は同じ床屋で散髪しないことにしていて、髪の毛が邪魔になってくると、町を歩いている途中で見掛けた床屋に飛び込んで刈ってもらったものだった。三軒茶屋の床屋で刈ってもらったこともあるのだけれども、随分腰が低いオジサンで、何だか気を遣って話し掛けてくるのだが耐え難い口臭で拷問のようだった。或いは、当人は気付いていなくてとにかく客に気に入られようと、努めて愛想良くしていたらしくも思われるのである。しかし、何れにせよなかなかそんなことは言う訳に行かぬのである。私は床屋の椅子に座ったら眠くなるので話し掛けてくれなくても結構だし、まんじりともせず口を閉じてくれと念じ続けていた。――殆ど忘れてしまったのに、変なことは(変なことだからこそ尚更)覚えているものである。
 新玉川線(現在の田園都市線)の南東側に2階建ての少し大きな本屋があって、2階には専門書なども並んでいたのだが、今はないらしく、店名も思い出せない。――角田研(1951.9.22生)のブログ「tsunokenのブログ」の記事、2017年7月18日「三軒茶屋ってどの三軒?」に拠れば「甲文堂書店」で、会社としては存続しているが、店舗営業はしていないようだ。
 三茶中劇(三軒茶屋中央劇場)にも1度か2度、入っている。普通の旧作映画の上映だったが、舞台が階段状になっているところにストリップ劇場の名残があった。『デリカテッセン』を三軒茶屋の映画館で見たのだけれども、あれは三軒茶屋シネマだったように思う。
・映画

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サウンドトラック
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・パンフレット
 昭和女子大学には、大学サークルの友人が民族音楽に興味を持って、ガムランの公演があると言うので聞きに行った。何故私も同行したのかと云うと、区立図書館でガムランのCD*2を借りて、面白いと思ってサークルBOXに持って行ってCDラジカセで再生して聞かせたのが、そもそも彼がガムランに興味を持った切っ掛けだったからである。院生になってから、昭和女子大の出身者と同期になり、博士課程に進んでから教授と知遇を得たが、昭和女子大に行く用事は絶えてなかった。
ジョクジャカルタのガムラン

ジョクジャカルタのガムラン

ジョグジャカルタのガムラン

ジョグジャカルタのガムラン

ジョクジャカルタのガムラン

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 いや違う、その教授と私が知り合った研究会が、会場となっていた大学の校舎が一時的に使えなくなったとき、何度か昭和女子大でやったのである。――私は既に歩いて通える距離に住んでいなかったが、助手が手配した店での飲み会の後、三軒茶屋からは乗らずにかつての通学路を辿って見た。そのときに、4月29日付「日本ペン習字研究会『NPK現代ボールペン習字講座』(1)」に触れた、かつて住んでいた社宅が跡形もなくなっているのを見た。――いや、これもそれ以前に1度、まだ明るいうちにしかと見て衝撃を受けて、夜中にもう1度、しみじみと見たのである。
 明治薬科大学は今でもバス停と「明薬通り」にその名を止めているらしい。東隣にも大きな建物があったことは、覚えているのだけれども、当時使用されていなかったので日大だと認識していなかった。明治薬科大学の校舎は何故か覚えておらず、裏通りを歩いていて見た、緑濃きグラウンドと部室棟を妙に覚えている。こういう古びた学校で過ごしたいものだなぁと思ったのである。しかし、しばらくして清瀬に移転してしまい、学生のいなかった日大の方がスポーツ科学部と危機管理学部が入って賑わっているらしい。
 書いているうちに色々思い出して来る。
 三軒茶屋と云えば世田谷線だけれども、これは別に書くことにする。(以下続稿)

*1:2020年5月24日追記】自転車のことはよく記憶していないのだが、高校時代には山の中腹の住宅地に住んでおり、さらに山を登ったところにある高校まで遠くなく、徒歩通学していたので自転車が必要でなかった。いや、麓の駅からだとかなりの登りになるのでそもそも自転車通学が認められていなかった(女子は登れないし、帰りにブレーキを踏まずに飛ばしたら大変なことになる)。そこで2016年2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」に書いた、中学時代に乗り回していた自転車を、東京に出て来た浪人時代に3年振りに引っ張り出したのではないか、と思う。何故かと云うと、三軒茶屋で、錆びてボロボロになってしまった自転車の前籠の代わりに、古くなった洗濯機の洗い物を仮に載せて水切りをする白くコーティングした針金製の目の粗い籠を括り付けて乗っていたら、警察官に職務質問されたことがあるからである。そんなことしてまで盗難車に乗らないと思うのだが、巡査連中は少しでも点数が稼げそうだと思うと捕まえるものらしい。そして、防犯番号だか車体番号だかを見られて無線で照会されたのだが、古過ぎるのだか東京の警視庁では確認出来なかったのか、とにかく良く分からんと云うことで放免された記憶がある。しかしそれは、院生になってからのことかも知れないが、とにかく、三軒茶屋に限らず怪しい自転車に乗っている変な男、と云うことで何度か巡査に呼び止められて「またか」と思いつつ、毎度同じような空しい確認作業に付き合ってやった記憶があり、かつ、その自転車がついに走行不能になって後は買い換えずに専ら歩き回っていたように記憶するので、――自転車の方が先だと思えるのである。

*2:5月27日追記】私が聞いたものと、再発売されたものとを貼付した。