瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(13)

 中学に入学して初めて受けた眼科検診で結膜炎と診断され、駅前の病院が雑居していたアパートの2階にあった校医の眼科に毎日通っていた。今で云えば医療モールと云うことになるのだろうが、昭和20年代に建てたらしい古アパートの、木の階段を上ってすぐのドアを開けると狭い待合室があって、40くらいの割に綺麗な熟女*1の看護婦2名の手が空いている方が受付も行っていると云う按配だった。医師は白髪痩躯の老人で、見た目は1月3日付「英語の思ひ出(1)」に述べたH先生に似ていたが、もっと小柄で、上品でありながら親しみ易い感じだった。温かい湯で目を洗ってもらうのが気持ち良く、毎日100円の診療を受けるのは全く苦ではなかった。中学では寄り道せずに指定された、自宅と学校を最短で繋ぐ通学路を下校するよう指導していたはずだが、私は通院を理由に、自宅とはまるで反対の方角に学校を出て、ごみごみした駅前に行き、余計な金など持ち歩いていなかったから何か買ったり食ったりすることもなかったが、或いはこの経験が2017年4月2日付「山岳部の思ひ出(5)」に述べた、高校時代の寄り道しまくってから下校すると云う奇行(?)に繋がってしまったのかも知れない。
 それはともかく、この眼科の待合室に「ビッグコミックオリジナル」があって、西岸良平三丁目の夕日』を、一時的ではあるがリアルタイムで読んでいた。いや、リアルタイムが問題になるような漫画ではないのだけれども、あの特徴のある絵と、内容は、なんとなく覚えている。特に好きと云うほどではなかったが、雑誌が月2回刊行で、毎日の病院通いだから、やはり毎回きっちり読んでいたのである。
・「投稿 風便り」(6)三丁目の夕日
 昨日からの「op.17 映画 「三丁目の夕日」 を観て」の続き。
 作者の西岸氏について検索するに「東京都世田谷区出身」とある。――世田谷区と云っても三軒茶屋の辺りと、宇奈根や喜多見の辺りでは、私の知っている平成初年でも全く違っていた。大井町線沿線の住宅地を引き合いに出しても良いだろう。だから、詳しく何処なのか知りたいのである。しかしいづれにしても、西岸氏の頭にあるのは昭和30年代の世田谷区、前回引用した森川氏の指摘にある「新下町」と云うことになるのだろうか。

ALWAYS 三丁目の夕日(プレビュー)
 映画は確か出来たばかりの東京タワーのすぐ近くと云う設定になっていたと思う。それなら港区である。しかし、森川氏が紹介しているこの映画の設定は、いくら昭和30年代でも港区らしくない。作者が世田谷区の少年時代に基づいて描いた諸設定を、東京タワーの麓に移してしまったことで、不自然さが生じてしまったところもあるのであろう。
 平坦な深川区と違って、港区では昭和33年(1958)でも道路の舗装は進んでいなかったのであろうか。或いは戦後、物資不足で場所によっては舗装を廃した箇所があったのかも知れないが。石炭ストーブについても、戦前の深川区では使用されていなかったが、戦後の港区や世田谷区では需要があったのかも知れない。とにかく、東京の「下町」と云っても、時代と場所によって状況には違いがあろうし、そもそも何処をとって「下町」と云うのか、それも人によって区々なのである。私のような余所者には、やはり上手いこと「下町」がイメージ出来ない。
 森川氏もそう云ったことを意識してか、

・・・・。でも、そんなあら捜しなどするのは私のような年寄りのすること、若い人は昔の下町の物は乏しくても支えあう人々の温かさを感じ取れればよいのだと思います。ご報告かたがたくどくどと申し立ててしまい失礼しました。・・・・

と纏めている。(以下続稿)

*1:当時はこんな言い方はしなかったと思うが。