【4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(176)」を「『三田村鳶魚日記』(02)」に改めます。記事名や番号のズレを修正した他は手を入れておりません。
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・『三田村鳶魚日記』(2)
日記には、人に読ませようと思って書いたものと、あくまでも当人の手控えとして備忘のために書いたものとがある。4月6日付(01)に触れた私の学部生から院生に掛けての日記は全く読ませようと思っていなくて、当時の私に必要最低限分かるようなことしか書いていない。どこに住んでいて、どんな交通手段を使って、どこに何曜日に通っていたか、などと云ったことを一々断っていない。それでも変り映えのしない日常が延々続くだけだから、2ヶ月分くらい読めば慣れて、大体のところは察せられるようになるだろう。とにかく毎日まめに付けていたから、一日一日読んでも全く面白くないが、纏めて1990年代に於ける学部生・院生の生活記録として、統計的に扱うことは出来るかも知れない。
しかし問題になるのは人名である。同じ固有名詞でも地名や団体名は他に調べようがあるだろうが、人名は別に何か名簿類を参照出来ないと、大学院の関係者とか、サークルの同輩だろうとか、大体の見当は付いても正確なところまでは分からない。
三田村鳶魚の関係者は『三田村鳶魚全集』が編纂された当時、歿後30年くらいだったので存命の人も少なくなく「三田村鳶魚全集月報」に毎号連載されていた、編集の朝倉治彦(1924~2013.9.15)が司会を務めた座談会にて思い出を語っている。もちろん、その多くが『三田村鳶魚日記』にも登場している(はずなのだ)が、約40年分1000頁以上の分量があるのに『三田村鳶魚全集』別巻(昭和五十八年十月十日印刷・昭和五十八年十月二十日発行・定価三五〇〇円・581頁)の9~175頁「人名索引」176~272頁「書名索引」273~487頁「事項索引」から成る、5~487頁「索引」に、日記を収録した第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻の3巻は採録されていないのである。
- 作者: 三田村鳶魚
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1983/10
- メディア: 単行本
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□第二十七回配本、第廿七巻をお届けいたします。今回の配本で、本/巻全二十七巻が完結いたしました。御愛読を感謝いたしますととも/に、多くの方々から御教示、御支援のお言葉をいただきましたこと/を厚く御礼申しあげます。
なお、別巻「総索引、著作目録、全集総目次」は、目下鋭意編集中/ですが、若干の日時を要する見通しで、昭和五十三年四月の刊行を/予定しております。なにとぞよろしくお願い申しあげます。
とあって、「若干の日時」とあるのは「本巻二十七巻」は昭和50年(1975)4月の「第一回配本」から昭和52年(1977)6月の「第二十七回配本」まで毎月刊行されているのだが、流石に「別巻」は10ヶ月空ける予定であったのである。
ところが実際に「別巻」が刊行されたのは、別巻に挟まれている「三田村鳶魚全集月報」第28号(昭和58年10月・4頁)の最後、やはり下段18行めに「■編集室から」とあって、続く19~25行めに、
□「三田村鳶魚全集」別巻をお届けします。
□本巻二十七巻完結以来、この別巻の一日も早い刊行に努めてまい/りましたが、編集に予想外の時間を要し、配本が大幅に遅れました。/この間、読者の皆さまからたくさんのお問合せ、ご叱正、ご激励な/ど頂戴し、恐縮に存じます。
ここにあらためて刊行が遅れましたことをお詫び申しあげ、併せて/今後共いっそうのご支援をお願い申しあげる次第です。
と詫びているように、6年4ヶ月後の昭和58年(1983)10月であった。
実際の作業がどのように進められ、如何に遅滞したのかは関係者の証言でも探さないと分からないが、『三田村鳶魚日記』を「人名索引」「書名索引」に含めれば三田村氏を中心とする近世学藝史研究史*1の資料になるだろうし、「事項索引」は明治末から大正を経て昭和の戦前・戦中・戦後に至る世相史の資料になろう。しかしながら、三田村氏の周囲には学藝史の人々の他にも、仏教関係者や親類縁者、出版社の編集者や新聞記者など、歴史に名前を残さなかった、当時としても調べにくい人物がいた訳で、三田村氏の生活面を知る上ではこうした人物たちとの交際も押さえて置くべきなのだが、三田村氏の学問の内容面には殆ど関係がなく、それなのに、それなりの紙数を要し、同定作業なども必要になって来る。「事項索引」も同様で、近代史に属する「赤マント」も立項されただろうけれども、やはり相当量の紙数が必要になる。そうすると、とてもでないが1冊には収まらなくなる上に時間も要する訳で、もともと1冊の予定の『別巻』を、大幅に遅れた上に分冊で出す訳には行かなかっただろう。
そのために『日記』の「索引」が一応作成されながら割愛されたのであれば、今からでも『日記』の分をどんな形でも良いから公開してもらえないだろうか、と思うのである。――作りたい、と思うのだけれども、幾ら少し暇になったとは云え、とてもでないが成し遂げられそうにない。(以下続稿)
*1:【4月13日追記】三田村氏の業績は学藝史に限定されないのだが、私の興味が学藝史研究にあるので、どうしてもそちらの面から見たくなってしまう。これも人毎に異なる偏りである。