先刻、4月6日付(01)以降の各記事冒頭に【追記】として述べたように、「赤いマント」の題のまま続けていた『三田村鳶魚日記』についての確認を、全て『三田村鳶魚日記』に改めました。
・文園町の家(4)
以後「三田村鳶魚直作目録」を見る限りでは、転居のことなどなしに、いつの間にか「中野文園の家」と云うことになっていますから、この「市外中野2104番地1号、160坪」の借地が町名変更によって文園町になったのだろうとの見当は付きます。
場所が同じとは各時代の地図を比較出来れば確実ですが、その余裕がありません。その点、杉崎俊夫編「年譜」には、「▽大正十五年・昭和元年(一九二六) 五十七歳」条の最後に、408頁下段14~15行め、「‥‥。この年町名改正により中/野打越から中野町文園二十六番地となる。」との説明があります。
この町名変更については「近世風俗文化学の形成―忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺」プロジェクト 編集『国文学研究資料館公募共同研究成果報告書 近世風俗文化学の形成 ――忍頂寺務草稿および旧蔵書とその周辺』(平成二十四年三月三十一日印刷・発行、大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国文学研究資料館)の附録 CD-ROM所収、内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」の「昭和6年の賀状か」と推定される「1150|三田村鳶魚(玄龍)」の忍頂寺務(1886.12.8~1951.10.4)宛「賀状」についての「備考」欄に、
‥‥。消印とともに「中野町宛の通信は新町名地番で」とのスタンプあり。昭和5年9月29日付三田村鳶魚書簡(書簡1026)までは住所が「中野町打越」、昭和6年5月7日付三田村鳶魚書簡(書簡1027)からは「中野町文園」と町名が変更しており、昭和6年5月7日付三田村鳶魚書簡(書簡1027)にはやはり「中野町宛の通信は新町名地番で」のスタンプあり(以降のハガキにはこのようなスタンプはなし)。‥‥
とあって、この間になされたことが察せられますが、Wikipediaの「中野町(東京府)」項の「歴史/沿革・年表」の最後、
・1931年(昭和6年)1月1日:字名改正(町名再編)を実施。従来の大字・小字を廃止して、新規に適正規模に区分した大字の設置が行われる。
・1932年(昭和7年)10月1日:東京市に編入して消滅し、野方町とともに中野区の一部となる。前年に再編した大字はそのまま中野区の町に引き継がれた。
とありますから、この昭和6年(1931)の年賀状がまさに「新町名地番」を周知させる機会となったもののようです。
なお、同じ附録 CD-ROM 所収、青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」には「三田村鳶魚「日記」」を典拠とする箇条が164条あります。(以下続稿)