瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(207)

吉行淳之介『贋食物誌』(2)
 昨日の続き。
 和田氏との対談ではごく簡略になって、当初女学生を狙っていることになっていた件などが見当たらない。これは7月18日付「吉行淳之介『恐怖対談』(3)」に引いた、恐怖対談シリーズの担当編集者・横山正治「解説」にあったように、元の「速記録」の「分量」を「三分の一から四分の一」に「整理し」てしまうため、省かれてしまったのかも知れない。もしもう少し色々語っていたとすれば、ちょっと勿体ないように思う。
 それはともかく、落語を聞いていると「鼻は崩れて穴だけになってしまう」病気は梅毒(瘡)だと思ってしまうのだが、吉行氏もこの点に引っ掛かったのか、和田氏との対談では「レプラ」ではなく「梅毒の末期かなにか」としていた。しかしながら、「ハンセン病制圧活動サイト Global Campaign for Leprosy Elimination」の「日本のハンセン病」の「ピープル/ハンセン病に向き合う人々 >」の 2015.12.25「遠藤 邦江(菊池恵楓園入所者)」インタビューを見るに、

先に入所していた兄は、その後、鹿児島(星塚敬愛園)に移って、いまは風見治っていうペンネームで通ってます。『鼻の周辺』という本を書いたりしました。よく小説などでハンセン病のことを書くときに、「鼻が崩れ落ちた」って表現をしているでしょう。兄はまさにそれだったんですよ。鼻がなくなってしまった。その体験をもとにした小説です。もうひとり、べつの兄は新聞社につとめていたんですが、うちの兄弟はどうもものを書くことが好きみたいですね。

との一節があって、ハンセン病(レプラ・癩)でも鼻が落ちてしまうことがあったようだ。

鼻の周辺

鼻の周辺

 そして、他の赤マント流言当時の資料を見ても、――2013年11月18日付(28)に引いた、昭和14年(1939)4月1日発行「中央公論」第五十四年第四号(第六百十九号)の「東京だより」に、流言が広まり始めた日に小学生の娘が「癩病病院を脱け出して来た」と云う「赤マントの佝僂男」が「小学校の三年と四年と五年の女子の血をすすると癩病が治る」との噂を語っていたことが記録され*1、同じ号に掲載された、東京の赤マント流言を総括した大宅壮一「「赤マント」社会学 活字ジャーナリズムへの抗議」には、2013年11月20日付(30)に引いたように「その男が危害を加えようとする相手は、少年少女だともいい、処女だともいい、或は或る年齡の女に限られているともいい、その点はまちまちである。無垢の血を求めているとか、若い生胆をねらっているとかいうことが、その犯行の動機になっている。それによって彼の業病天然痘ともいい癩ともいう)を治そうとする信仰に基づいているといわれる」と纏めてあった。或いは、2013年12月2日付(42)に見たように、前年6月に名古屋で発生した癩病患者の Korean による生胆取り事件に言及する新聞もあった。2018年9月3日付(161)に引いた「経済雑誌ダイヤモンド」第二十七巻第七号の近藤操「旬評/赤マント事件の示唆」は、大宅氏の「「赤マント」社会学」に先行する、まだ流言が終熄する以前に執筆された論評だが、「小児や婦女子を襲う」理由として「それが天然痘患者に対する迷信的治療のために生血を取るのだとも伝えられ、或いは千人とか百人とかの若い女の生血を啜ることが、癩病治療に特効があると迷信した妙齢の女性の犯行だともいい」との説が紹介されていた。――梅毒と云う説は他にないらしいのである。
 生血を啜るとか、生胆を取るとか云うのに比べて、頰擦りとは随分おとなしいようだが、つい先日判決の出た「ハンセン病家族訴訟」を見ても分かる通り、当時のハンセン病に対する誤解と偏見に基づく差別を考えれば、それだけでも大変な恐怖であったろうとは思うのである。(以下続稿)

*1:2013年11月19日付(29)に引いた続く場面で、その姉の女学校の生徒が「女学校は一年と二年生の血を啜る」と云う噂で持ち切りだったと語っているが、癩には触れていない(恐らく同じだから記録しなかったものと思うが)。